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フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 読書メモ(微ネタバレ)

今更ながらに読んでみた。ブレードランナーの原作小説。1977年発行の文庫本のバージョン、元々は1969年に単行本として出版されていた。日本での書籍発表の当時は、著者の名前を知る人が少なかったと綴っていたが、映画ブレードランナーの公開によって一転大人気となった。

映画は見たような、見てないような、記憶にない。小説とは少し違っているらしい。


2016年の7月の74刷を読んだ。


地球に人が住めなくなるような大戦後の世界、どういった経緯かは不明となってしまったが、誰かが核ミサイルを使った。死の灰が降り、若い人から火星などの植民地惑星へ移住が行われている。移住を決断した人には手伝いとしてアンドロイドが支給される。

ただし、植民地惑星の生活は過酷であり、そこで使役されるアンドロイドは地球に逃亡してくることがある。そうした脱走アンドロイドを処分する賞金稼ぎの一人が主人公である。


人間は動物を飼うこと、それが人間らしいということ。何かの世話をするということ、ほとんどが絶滅してしまった貴重な動物に対価を支払うことができること、世話に時間を使うことができるということ。そうしたことに人間性を見出している。他にどんな意味があるだろうか。自分はアンドロイドではないという暗示。

飼っている動物によってクラスが決まる。電気仕掛けのレプリカではなく、本物の動物の方が高くなるし、小動物よりも家畜相当の方が、そして動物園で飼育されているような動物になると想像もできない。

こんなバカバカしいマウンティングが行われている世界観。これを自動車や家や、ファッションに置き換えたらと思うと、なんとも皮肉なことだし、いや、こうしたステイタスによって社会を構成するのが人間だと捉えることもできるだろう。ダナ・ハラウェイをもう一度チェックしよう。

そして、この世界には、脳波に直接干渉する共感装置が登場する。



人間そっくりに構築されたアンドロイド、詳細な説明は無いが、それは機械ではなく有機物によるアンドロイドのようである。外見上の区別はつけられず、その判定は感情移入できるかどうかであり、検査方法は質問をして、その反応を見ること。

生きているもの以外に感情移入ができるのか。

物語が進むにつれて、アンドロイドに対する感情移入、人間らしい中身をもったアンドロイドと無機質な非情な人間、そのうちにアイデンティティまでもがおかしくなる。読んでいるこちらでさえも。


僕自身のキャリアに想いが飛ぶ。プログラムを書く、情報システムを作る、業務を作る、ビジネス戦略を作る。当初のプログラム開発から見れば、大分人に近づいてきたけれど、やはり思考はプログラム(コンピューター)に寄っている気がする。沢山のシステムは作ってきたけれど、それが処理する情報の意味や価値については興味が無かった。業務が楽になったなどと感謝されることもあるけれど、そんなことよりも中身のプログラムコードの美しさの方に関心があった。


高度な知能(既に人間の知能を凌駕している)と複雑に合成された性格を持つアンドロイドは、どうしようもなく人間臭く見えることがある。

おれは、すくなくともある特定のアンドロイドに対して感情移入ができる、ということさ。すべてのアンドロイドにじゃないが−−−中のあるものに対しては(P.186)

日本的な感覚で言えば、擬人化ということを随分昔からやっていた。また、情報産業になってしまい恐縮だが、日本製のソフトウェアには君や、さんをつけることが多い。ただ、この小説はアメリカで書かれたもので、そうした背景を知る必要がある。物への感情移入。


ただ、主人公はアンドロイドに対して次のようにも捉えている。

自分の言葉が現実に意味していることについて、なんの感情も、なんの思いやりもない。ただ、ばらばらな用語を並べた、空虚で型どおりの知的な定義があるだけだ。(P.249)


あとがきから引用したい。『銀星倶楽部』12のフィリップ・K・ディック特集号に掲載された後藤将之による「フィリップ・K・ディックの社会思想」。

そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている。彼が問題としていたのは、人間と機械の、その双方における、「人間」性および「アンドロイド」性の対立の構図である。(P.327)

アンドロイドを持ち出すことによって人間性を問う。



修士1年時の中間報告に当たって調査していたDetroit: Become Humanが、ディックの小説の影響を受けたと聞いたような気がする。それが、この小説を読もうとメモに書いてあった理由だと思う。





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