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ボルタンスキーに痺れた

現代アートって、こういうもの。

現代アートに定義は無いけれど、おおよそこんな感じという概念は捉えられたと思う。(思いたい。)ただ、現代アートの作品、展示会を見ても、「ふーん、だから何なの?」というのが正直な感想。

何かが足りない。

ともかく体験してみることが大事。8月末に、新国立美術館にクリスチャン・ボルタンスキーの回顧展『Lifetime』を見に行く。


予習もバッチリ。現代アートの巨匠と呼ばれているアーティストの大規模回顧展ならば、何かしらつかめるかもしれない。

最初の部屋の映像作品。ボルタンスキーの言葉に寄れば、まずはアートの洗礼を受ける必要がある。じっくりと映像作品を見る。最初から最後まで。といっても、映像作品はループになっているから、全部見たと思えるまで見続ける。

フェティシズムを生、嘔吐を死と解釈した。

フェティシズムの作品はハイヒールをひたすら舐める男の映像が流れ、嘔吐はそのもの嘔吐し続ける映像が流れる。

鑑賞したタイミングは死から。何もない前提知識、死が入ってきた。次に生を見たが、死を連想させる生である。
この洗礼を持って、広い展示空間に入る。しかも、入口には"DEPARTURE"とあった。これから何が始まるのか。

最初の部屋は、遺骨安置室のような展示。

これは何だ?

意味があるようで無いようで。幽霊と紹介されているものもあれば、全く意味が取れないものもある。静かな展示室、ここに没入する。

やがて、次の展示室に移動。

新聞の死亡記事に載っていた顔写真を拡大した写真、被害者なのか、加害者なのか、事故なのか、事件なのか。その顔の持ち主の名前や、どういった経緯で亡くなったのかも取り去られている。

無限に反復されるかのような人の死と、その死から個性を取り去るような表現に、鑑賞は彷徨うように、行ったり、来たり。

アーティストが2年にわたり作っていたというスプーン、一部が提示されている。その形からとても実用できないと思うが、千本以上のスプーンがあるという。

撮影可能の展示室に出た。

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広い空間、ブルージーンズで山が作られている。実際に使われていたジーンズ、こうして山として積み上げられた時、それぞれの思いというか、それぞれの物語がどこかに置いてこられたような虚無感が去来する。この山の周囲には、ジャケットを着たイーゼルがあり、ライトが設置、延々と同じ事を話す。そうした作品があった。

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映像作品を通り抜け、ようやく来世に到達した。

気がつけば、2時間も彷徨っていた!


展示全体をひとつの作品として提示するという。

アーティストが作り出す世界、僕の場合は、その世界で悲しみがこみ上げてきた。人生の悲しみのどん底まで引き込まれる。むしろ、引き下ろされる感覚。それは死を連想してのものではなくて、悲しみという感情だけが、直接的に、静かに湧き立ってきたような感覚。人の人生から物語を取り除いたら、それを自分に投影するのだろうか。


カタルシス

アーティストによって誘われたのではなく、アーティストは作品を提示しただけ。それに対する反応というか、解釈は鑑賞者が考えること。


展示全体が作品として鑑賞者の深層心理に潜っていく、時間、価値観、全てが飽和していく。来世のゲートを通って現実に帰る、それがよかったことか、自分の中で反芻する。自分を見つめ返す、見つめなおすことができた。

そうした自分自身を見つめなおす、リフレクション、鑑賞者のそれぞれが答えを探す、見つけ出す、たどりつく。


展示会鑑賞後に、とあるギャラリーのセミナーに参加したのだけど、それがつまらなかった。そうした時間を無為に過ごすのもどうかと思い、ずっともやもやしていた『ライフタイム』の解釈をまとめた。そうした展示の反芻がとても良かった。


いただきましたサポートは美術館訪問や、研究のための書籍購入にあてます。