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平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ』読書メモ

アイデンティティを問う。それを平易な言葉で綴られている。本書の中にも出てくるが、学者ではなく小説家が語る。流れるような文章は、読んでいて心地いい。

私を、アイデンティティを首尾一貫したひとつの人格として捉える。それは無理があるとして、分人という考え方を提案している。少し乱暴な説明だけど、分人とはコミュニティの数だけ私があるということ。

人間は確かに、場の空気を読んで、表面的には色んな「仮面」をかぶり、「キャラ」を演じ、「ペルソナ」を使い分けている。けれども、その核となる「本当の自分」、つまり自我は一つだ。そこにこそ、一人の人間の本質があり、主体性があり、価値がある。

人と人との関係の中で、人を理解しているが、SNSによって、私とは接していない、あの人を見ることができるようになった。「あいつ、あんな奴だったっけ?」というのは、ネットによって暴露されたという。

私と接していない場所で、その人がどんな様子なのかは、かつてはまったく知る機会がなかったからである。

リアル人格vs.ネット人格の真贋論争は、バカげた話のように聞こえるかもしれない。

あなたが知っているあの人は、あの人の部分にしか過ぎない。その部分は、あなたと接しているときの分人であるから。ネットに出ているあの人は、あなたと接している時とは違う分人になっている。

私は、彼の前での私が、「本当」の私だと、本質を規定されることを窮屈に感じた。自分には、彼の知らない、もっと別の顔もある。もちろん、彼の前で話したことは、すべて「本当」である。しかし、クラシックが好きな私も、ジャズが好きな私も、同様に本当である。

これは、ある種のラベリングだと思う。

あの人は、こういう人だから

とは、こういうこと。

他人から本質を規定されて、自分を矮小化されることが不安なのである。



個性的にありなさい、という教育方針から打ち出された自分とは何か。
1975年生まれで、就職するタイミングは1999年頃、人数が多いがバブル崩壊の就職氷河期では、次のような状況になっていたという。

そんな仕事をするのは、「本当の自分」ではない気がする。だからこそ、かりそめにバイトなどで食いつなぎながら、いつか「本当の自分」の「個性」が発揮出来る仕事をしたいと夢見る。

私たちの日常の対人関係を緻密に見るならば、この「分けられない」、首尾一貫した「本当の自分」という概念は、あまりに大雑把で、硬直的で、実感から乖離している。

西洋から輸入された個人という考え方に、日本人は便利だが、馴染んでいないという主張が続く。キリスト教の考え方にも関係があると推察していた。

小説家は登場人物の本質を書くことになる。いろいろなやり方があると思うけど、世界を作って人物を作ったら、その人が勝手に動き出す。とある漫画家から聞いた物語の作り方。

分人は分数、対人関係の数だけ分母があり、その関係性が深いほどに分子が大きい、集まれば1になる。そして中心が存在しない。

常に、環境や対人関係の中で形成されるからだ。

ラカンの自身の中にある他者を思い起こす。

著者が学生時代に住んでいた京都のコンビニ店員との関係性と留学先の商店主との関係性、分人化とは、それぞれ対峙する人との関係性によって、成長していく。高校の友達、大学の友達。etc.

客は、おにぎりだの烏龍茶だのが買えれば十分で、十年来通い続けている商店街の魚屋で交わされるようなやりとりを求めているわけではない。相手が必要以上の分人化を求めてくれば、ヘンな人とでも思ってしまうのが日本人である。

人の数だけ分人があるかといえば、そういうわけではない。汎用的な分人、社会的分人を持っており、初対面の人とは、その分人によってコミュニケーションを行う。そのうち、共通点を見つけたり、個別の事項の深堀によって、分人が進化・深化していく。

社会的な分人化がうまくいかず、日本にいる時は孤独だったが、海外生活を始めると、途端に生き生きし始めるという人もいる。

コミュニケーションのギャップとは、こうしたところにある。


ロボットと人間の最大の違いは、ロボットは──今のところ──分人化できない点である。もし、相手次第で性格まで変わるロボットが登場すれば、私たちはそれを、より人間に近いと感じるだろう。

読み進めていくうちに、分人とは、他者との関係性という言葉で置き換えられるのではないかと思えてくる。ただ、関係性というと自と他の間にあるように見えるが、分人と表せば、自分の中の一部から相手の一部への橋渡しのような感覚になるだろうか。ただ、そのことも筆者は指摘している。自分一人で居る時は、どんな分人なのか、ということを。

私たちに知りうるのは、相手の自分向けの分人だけである。それが現れる時、相手の他の分人は隠れてしまう。分割されていない、まったき個人が自分の前に姿を現すなどということは、不可能である。それを当然のこととして受け容れなければならない。


愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。

分人によって説明をしている。

愛についてまで語った後で、最終章で遺伝について語る。


コミュニケーションのしずらさ、つまりは生きづらさなどを例示する。それは個人という単位で物事を見ているし、判断しているから

人によって態度が変わるのは当たり前だと思うけど、自分が分割できないとなると、八方美人ではないかと悩むかもしれない。

社会的な対応から、その人との共通的な対応へ変化し、共通の話題や趣味を発見して、更に踏み込む。その人向けの分人が出来上がるという。

人間は、他者との分人の集合体だ。あなたが何をしようと、その半分は他者のお陰であり、他者のせいだ。

著者の小説の中で主張された分人主義、それを説明するための本書、著者の小説で言いたかったことが解説され、自身の経験からの分人という考え方を示している。他者との関わりの中で、分人が形成されていき、あるいはしぼんでいき、そうした分人の集まりが私という人間を作っている。個人としての一貫した自分があるということを疑ったところに、この考え方のエッセンスがあるだろう。


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