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「ここちよさ」は「ぬるい」のか?

市川望美です。ちょっとごぶさたしてしまっております。気がつけばもう師走・・・! いよいよ2020年が終わってしまいますなあ・・

(ARASHI  。・゚・(ノД`)・゚・。 )

センチメンタルな気分になりつつある今日この頃ですが、それはちょっと脇に置いて、今日は「努力・根性」と「ここちよさ」のお話です。

▶目次
1.『ここちよさって、ぬるくないですか?』
2. 努力・根性 vs ここちよさ?
3. ここちよさは、試される。そして、時に違和感や痛みを伴う。
4. 歪んだなりに積み上げてきたものがあり、それに守られてきた今がある。
5.「ここちよさ」を、ここちよく感じる力。


『ここちよさって、ぬるくないですか?』


私たちPolarisは「ここちよく暮らし、ここちよくはたらく」という言葉を掲げていて、事務所兼コワーキングスペースの名前も「cococi」です。

ライフスタイルやライフステージに合わせて、自分が納得できる働き方や暮らし方を選択するためには、誰かの基準ではなく自分の基準で選ぶ必要があるけれど、でも、いざ「自分の基準」を採用しようとしても、どこかに誰かの価値観や今までの習慣が入り込んでしまって、自分がどうしたいのか分からない。本当はこうしたいけど、そうできない…。そんなこともあると思います。

また、そもそもこの「ここちよさ」という感覚(価値観)は、人によってあまりここちよくない、という事もある模様です。ここちよさって、口当たりいい言葉だけど、ちょっとぬるくないですかね…と。

実際に、言われたこともありました。


努力・根性 vs ここちよさ?


過去を振り返ると、頑張り屋さんだったり、努力をきちんと積み重ねて行けるタイプの方たちが、「ここちよい」=「生ぬるい」というように感じてしまうことが多いのかな…と感じます。努力の先に成果がある、と信じられる人。ゴリゴリやってナンボ、という根性がある人、ヒリヒリする状況が燃える!というタフな人か、そんな人たちからすると、ちょっと物足りない言葉なのかもしれません。

だけど、努力・根性とここちよさって、本当に対立する概念なのかな。ここちよさって、努力不要のものであって、努力の反対側にあるものなの?

私たちは、「ここちよさ(を追求すること)」って、結構大変なことだと思っているんだけど…。


ここちよさは、試される。そして、時に違和感や痛みを伴う。


ここちよさって、リラックスできていたり、のびのびできていたり、自分が楽でいられると感じられる感覚だろうし、自分にとってもフィットしていると感じられたりすることも大事。そんな状態だと、確かに「無理はしてない」。というか「無理はかかっていない」状態にあるのだと思います。自分にフィットしている、無理がない、締め付けられていないからリラックスできる。だから、ここちいい。

でも、自分の感覚を信じられないと、ここちよさを感じることはできない。自分自身にここちよさを許せない。力を抜いてしまうことが怖いのかも入れない。

誰かの要望や期待にこたえたいと、頑張ってきた人たちからすると、自分の感覚に根ざして何かするなんて、怠慢に思えるのかもしれない。

だけど、自分の感覚で選ぶという行為は、誰かの感覚によって与えられたものを選ばない・捨てる、ということでもあったりする。そこには痛みが伴うかもしれない。今までいた場所から自分だけ離脱することになって、さみしさや孤独を感じることもあるかもしれない。

そんな風に「ここちよさ」を知り、「ここちよくあるために行動」を取ることは、結構「試される」ことだったりもして、かなりシビアなことでもあるのではないかなー、と思っています。


歪んだなりに積み上げてきたものがあり、それに守られてきた今がある。


以前、お世話になっていたヨガの先生から、「体を正しい位置にすることって、いま歪んでいる人からすると、逆に不安定だったりここち悪く感じたりするんだよね、歪んでいるなりにその姿勢を保ってきたわけで、ある意味安定していたわけだから」ということを聞いたのだけど、今までお話してきたことも、そういうことなのではないかと思うのです。

本当はこうしたいなあ、と思っていたけれど、我慢して受け入れてきたことや、受け入れ続けた結果、慣れてしまったり、ここち悪い中でも試行錯誤し、その中で安定を創りだしてきた「実績」があったりするから、いまさら「ここちよいこと」をやってみても、逆になんかここち悪い、違和感がある、ここちいいと思えない。で、「やっぱこれって違うのかな」と、ここちよさ(に至る道)を手放してしまう。

歪んだなりに安定した世界なのだから、そこから出ることは怖かったりもするよね。

正しい姿勢を取り戻すまでは、ただしい姿勢が違和感だったりするのと同様に、ここちよさを取り戻すまでには、ここちよさには違和感があるもんだ。

だけど、その違和感を見過ごさずに追いかけてもらいたいなあ…ここちよさを、「すっ」と、素直にここちよく感じられるようになるには、実は鍛錬が必要なのかもしれない。ここちよさと鍛錬、自由と鍛錬はつながっている。


「ここちよさ」を、ここちよく感じる力。


言葉遊びみたいになっちゃいますが、「ここちよさ」を「ここちよく」感じることには、経験値や、もしかしたらスキルが必要なのかもしれないですね。「自分のここちよさ」を忘れてしまっている人たちは特に。一時的に封印した、という人もいると思う。今は、自分よりも他の誰か、何かに向き合う時だと思って。(そんな頑張り屋の母たちに多く出会ってきました。母たちだけではなく、色んな現場でそんな人たちが支え守ってくれているものも多いのだと思っています。)

でも、「ここちよさ」は、封印しないでもいい。「頑張り」と併用できる力でもあると思ってる。

「ここちよさ」は、自分の感覚、特に身体感覚に紐づくものなので、「頭」で考えた「正解」にモヤモヤしても、「それってここちいい?」と、自分に問いかけてみることで、頭で考えると出てこないような選択や、自分の中にある正解を導き出すことができるようになるかもしれない。

「ここちよさ」は、そうぬるくない。でも、「ここちよさ」を感じる力を手に入れたら、きっと、余計な力はいらなくなるし、余計な頑張りも不要になるから、結果「ゆるむ」んだろうなあ・・これはやっぱり「ぬるい」ってことのかな? 

・・・私はそれが適温だと思うんだけどね。

#根性論 #ここちよい #心地よさ #努力 #鍛錬

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