「鏡開き」
「一夜飾り」について書いたので、その続きとして「鏡開き」という言葉が頭に浮かんだ。
言うまでもなく、「鏡開き」とは正月に飾っていた鏡餅を食する日のことだ。
それが正月の何日のことかと言えば、地域によって異なるけれど我が家のあたりでは松の内が明けた後の1月11日が一般的だと思う。
なんで松の内が明けたその日じゃないの?だとか、そもそもなんで松の内は1月7日までなの?だとか言うことを書き出すと、この話が矢鱈長くなってしまうだけだ。
何より元々知識として持ち合わせていないことが多発するのだから、付け焼刃の駄文になりかねない。
そうじゃなくても駄文なのだから、君子危うきに近寄らずだ。
いけないいけない。「鏡餅」だとか「松の内」だとか「矢鱈」だとか「付け焼刃」だとか「君子危うきに」だとか、要解説の文言が既に多発しているじゃないか。
ここは絞り込まねば。
要するに「鏡開き」とは、神仏に感謝してお供えしていた鏡餅を食する日なのである。
今や核家族向けの小型サイズだったり、なんなら鏡餅型のプラスチック容器に小分けの個包装の餅が入ってたりするので食すにも簡単だけれど、昔ながらの生餅で作った鏡餅は、食べるには小さく分けなければならない。
そして、昔ながらの生餅だと、正月の期間ずっとお供えしていれば乾いてカチカチになっている。
だから、小さくするのには力技が必要になって来る訳で、刃物で切るのは危ない上に大変だし、刃物を使うのは縁起でもないという考えもあったりするから、必然的にトンカチとかで叩き割るという手段を選択することになる。
これが「鏡割り」というネーミングの由来ということになる。
ところが、「切る」が縁起でもなければ「割る」も縁起でもないという考え方がちょっと待てよと言って来る。
結果、末広がりで縁起が良いとの解釈とも相まって「鏡開き」と呼ばれるに至った訳である。
ちなみに、おめでたいイベントとかで酒樽の蓋を「よいしょ、よいしょ、よいしょ!」の掛け声とともに木槌で割るのも「鏡開き」と呼ぶことがあるけれど、そちらも元々は「鏡割り」であって、餅と同様縁起を担いで「鏡抜き」とか「鏡開き」と言うようだ。
もっとも、そちらの「鏡」は当然「鏡餅」の「鏡」ではなく、木の蓋が丸くて鏡みたいだからということのようだから語源は異なる。
で、やっと本題。
何故今回「鏡開き」について書き出したかと言うと、「一夜飾り」との正月繋がりではあるのだけれど、寧ろどうにも疑問が晴れないことがあるからというのが本来の理由なのだ。
「松の内」は正月7日に明ける。「鏡開き」は正月11日。
このタイムラグの理由と言うか由来については、いろいろと紐解けば解らないこともないのだけれど、現実場面としてその間の鏡餅はどうするのが正しいのだろう?
7日に正月飾りを外し、11日に鏡餅を食すということは、いろんなところに明記されているけれど、鏡餅だって正月飾りのひとつではないか。
正月飾りとして7日に鏡餅も下げるのか、それとも7日に正月飾りは外すけれど鏡餅だけは供え続けるのか、その場合、餅だけ備えておくのか、お飾りは残しておかなくても良いのか。
実は、我が家では松の内で鏡餅も下げておき、その後11日に食べる。食べるまでの間は食材として台所に置いておく。
しかし、それで正しいとの確信をもって毎年正月を送っている訳ではない。
インターネットの個人サイトには、「鏡開きまでは鏡餅のみをお供えしておく」といった記述も見受けられる。
ただ、神棚や仏壇であればそれでも良いように思えるけれど、他の場所(居間だとか台所だとかトイレだとか)にも飾っている家はどうしたらよいのだろう?
お飾りを外した餅だけがトイレにあるというのは、絵面としてもどうなんだろう?どうにも受け入れ難いように思える。
そして結局、今年も正解には出会えなかった。
学びは来年に持ち越しとなった。