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トラウマと旅

 旅する臨床心理士を自分のキャッチフレーズにしたときは不思議な感覚だった。

 私という人を表現しようとしたとき、似た芸能人を聞かれてもイマイチいないし、自分の性格を聞かれても「ちょっと変わってる」というくらいで、なかなかこれというものがない。ただ昔から時間があれば遠くへ行こうと思うタイプで、大学の授業1コマの休講でどれだけ遠くへ行けるかを何度も試して、大学の仲間たちからはあきれられた。放浪が趣味、というのは公言しているし、年とってもじっとしていられず、どこかにでかけたくなるだろうと思った。

 (あ、旅するカウンセラーと言っている先生はいましたね。でも、コロナ禍でも旅してるのは私くらいかとは思うんですが。)

 

 しかも私が旅好きなのは根っからで、DNAだと思う。特に母方祖父。

 祖父は農業の合間に数日いなくなったりしていたんだそうな。フラッと旅に出る人。祖父に連れて行ってもらった旅は、記憶にあるだけでも小学校の間に、京都へ2回、大山登山などなど。

 私の新幹線初体験は、新大阪から1駅分だけ乗った「こだま」。祖父とは貧乏旅行という感じだったので、ちょっとした贅沢をした気分だった。

 路面電車をみて「電車が乗りたい」と言ったら、地下鉄に乗せられてしまい、ちょっと違うんだけどな、と思っていたこと。小学校高学年なのに一人では心配だからと男湯に連れていかれたのは、かなり微妙な気持ちだったこと。(今では問題だろうね)

 変な思い出も残ってるけど、祖父と2人旅は楽しかった。旅行好きの祖父がいるのだから、私は遺伝で旅行好きになったとずっと思っていた。

 だけど、先日母から聞いたことでちょっと考えが変わった。

 祖父は戦時中、満洲で憲兵をしていて、戦後数年間たってから、日本に帰ってきたそうだ。昨年、硬膜下血腫をした母が、今までしないような思い出話をするようになってたのだが「なんでかわからないけど、その時私だけが夜中に起きていて、父親がボロボロの姿で帰ってきていて怖かった」と話してくれたのだ。母は4,5歳くらいの時だろうと思う。

 憲兵の配置換えがあり祖父が新しい部署について数日後、ロシア軍に占領された。憲兵は銃殺されるか、シベリアに抑留されるところを、祖父は現地の人にまだ顔を知られていなかったため、一般人として逃れたのだそうだ。命からがら逃げ、どこへも行くことができず満洲を流浪したうえで帰ってきたということが、祖母が亡くなる前にわかったのだそうだ。

 昔、祖母が写真を見せながら教えてくれたのだが、祖父は憲兵の仕事の合間に現地の人に日本語を教える教師をやっていたのだそうで、現地の人たちと相撲をとったり、満洲の民族衣装を着たりと、楽しそうな姿が沢山残っていた。現地の人に「先生、先生」と呼ばれて慕われていて、配置換えがなければ、顔見知りばかりの場所だっただろう。

 祖父は満洲の景色をどんな気持ちで眺め、どんな旅をしていたんだろう。仲間のこと現地の人のこと、4人の子どもと妻をどんなふうに思ったのだろう。

 そういえば、祖父との旅は、おしゃべりすることは少なく、お互いがぼんやり風景をみている感じの旅だった。さほど観光を楽しむわけでもなく、慎ましく旅をしていた。まるで昔の旅をなぞるようだ。

 祖父のトラウマの癒しの旅に付き合っていたのかもしれない。

 祖父は孫全員を旅行につれて行くつもりだったらしいが、マイペースな旅に付き合える孫は少なかったようで、私だけが回数が多かった。戦時中に悪くした肺の影響で寝たきりになって、私が大学生になったばかりころに亡くなった。

 私も旅にどこか癒しを求めているような気持がある気がする。

 なんだか自分に納得してしまって(旅するカウンセラーを名乗る先生に)私の方が戦争時代をひきずってて筋金入りですよって、笑って言いたい気分になった。

 おじいちゃんへ 私はかなり影響を受けて今を生きていますよ。

                        ゆかり



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