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きっとどこかにつながっている世界のこと

年が明けてから、大学時代の友人2人と連絡を取り合い、会うことになった。
それぞれ、ランチにでも行って色々話そうよ、という具合だ。
この「色々」に自分の近況報告をどこまで含めるのか、少し考えあぐねつつも、約束の方が楽しみだったりする。こういうところをみるにつけ、やはり私は図太い人間だと思う。

とはいえ、仕事を辞めて働けていないことはこの2人にもなんとなく伝わっているはずなので、いまさら何を迷っても仕方ないだろう。

むしろ、どう考えてもややこしい物件でしかない私に声をかけてくれるなんて、ありがたい話でしかない。
逆の立場だったら、そうそう誘えないのではないか?
そう思い至り、つくづく人に恵まれている自分を幸運だとも思う。

私のまわりには、やさしいひとたちばかりだ。

やさしいとは甘やかすではなく、思い遣ってくれるという意味で。

友人たちもそうだし、両親に至っては本当に根気強く、私を見限らずにいてくれる。

それは親子という関係から発生する呪いのようなもので、両親を不自由にしているにしているのだから、決して褒められたものではない。
こんな風になってようやく、切っても切れない親子の縁に対して、ありがたさと申し訳なさを実感している。

親戚からも、バイト先のひとからも、直接いまの私を非難されたことはない。
わざわざ他人に注意することは相応の覚悟と労力を伴うわけだから、そこまでしてもらう筋合いも価値も私にはないのだけれど、かといって「どうでもいい」と切り捨てられていないはずだとも思う。

絶たれずにすんでいる、私と他人をつなぐ糸。
それがあるから、私は閉じた世界から引き上げてもらえる。
アリアドネの糸は、実はそこかしこに張り巡らされているのではないか。
自分が気づかないだけで。他人も知らないだけで。

私は、当たり前だと思っていることを時折「そうではないんだ」と振り返れる自分でいたい。

なにもかもがありがたく、奇跡のようにつながってどこかへ向かっている。
糸をたぐり寄せたら、いつか糸玉ができあがるだろう。
その糸はくたびれて、汚れてしまっているかもしれないけれど、ところどころ色の違う不思議な姿をしているんじゃないかと思う。

私の出口はまだ見えない。
それでも、出口がないとは思っていない、この気持ちを忘れずにいたい。


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