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息。まっすぐに、長くのびて


息をする。鼻から吸って口から吐く。

意識してもうまく息ができないのだから、無意識ともなれば、呼吸が止まった状態で生きているのではないかとつい疑ってしまう。



***



よく箸が転んでもおかしい年頃なんて言われるが、今の私だったら箸が転んだとしても泣くだろう。それくらい精神的に参っていた。

感受性が強く繊細な性格。そのうえ共感性も高いからか、パルミジャーノチーズのようにゴリゴリと身を削って生きていく感覚が常につきまとってくる。



駅で電車が通過する時、今急にホームに飛び降りたらどうなるんだろうと黄色い線の外側に足が伸びているのに気づいてハッとする。

試験勉強中にふと目についたクローゼットのハンガーパイプにベルトをひっかけて、これだと足が着いちゃうからだめだ、と考えている途中で我に返る。

そんなことが日に日に増えていった。



ちょっとコンビニ行ってくるね。というのと同じテンションで、ちょっと死んでくるね。と家を出て自殺してしまったとしてもなんら不思議はない。そんな自分が普通ではないことは分かっていた。

ただ認めたくはなかったし、病院に行ったら負けだと思っていたのも事実だ。そんなこんなで徐々に症状は悪化して、ついには人の話を聞くことすら難しくなってしまった。

もっと正確に言うならば、インプットされた言葉たちが脳みそのなかで渋滞して、処理が追いつかなくなっていた。

それは、私がまだ小さな子どもだった頃。「じゅういち!じゅうに!じゅうさん!」と一生懸命何かを数えていると「にぃー、さーん、しー」と横から妹が茶々を入れてきて頭の中が混乱してしまう………あの感覚とよく似ている。

今まで当たり前にできていたことが、困難になっていく現実に恐怖を感じるようになると、その恐怖が原因で頻繁に過呼吸を起こすようになった。日常生活が困難になってはじめて私は病院へと足を運んだ。



うつ病だった。成績優秀者に選ばれ、学費が免除になるほど力を入れていた大学での勉強もまったく身が入らなくなり、夏休みが終わると同時に休学届けを出した。

仲の良かった友人からくる連絡はのらりくらりとかわしているうちに、半年もすればぱたりと止んで、所詮私の人生なんてそんなものだとアパートのベッドで一人肩を震わせた。

そんな時、バイト先の居酒屋で知り合った8歳年上の男性から急に連絡がきた。


「元気かー?」


いきなりどうしたんだろうと訝しみながらも


「めっちゃ元気です!!」


と返信をした。

決してそんなことはないのだけれど、急に連絡がきた親交も浅い人に対して、最近は全然元気がありません。なんて言えるはずもなく、かといって、ぼちぼちです。なんて私らしくない。


「めっちゃか(笑) 暇な日があればこっちに遊びにおいでよ」


こっちがどこを指すのか一瞬分からなくて、記憶を辿る。そういえば、今は伊豆の方に住んでるって言ってたっけ。


「大学の授業をサボればいいだけなので、いつでも行けますよ!」


とうに休学届けを出していたが、自分の小さなプライドが知られたくないと言っているので隠し通すことにした。自分のこういう見栄っ張りなところが心底嫌いだ。


「それだったら明後日の木曜日はどう?急すぎるかな?」

「分かりました」



***



それから2日後の正午すぎ、私は伊東駅の改札に立っていた。
思っていたよりも駅舎が綺麗で驚く。リニューアル工事でもされたのだろう。

寒さと乾燥に負けた手をさすりながら、待っている間にコンビニでハンドクリームを物色していると後ろから声がかかった。


「久しぶり」

「あ、三谷さん。お久しぶりです」

「ごめんね、急に誘っちゃって」

「いえ、ありがとうございます」

「この時期は河津桜が見頃だから、まずそこに行こうか」


白いミニバンに2人で乗り込む。そういえば、私は三谷さんが何の仕事をしているのかすら知らない。その状態でよくここまでのこのこやって来たなと思わず苦笑した。 

伊東駅から河津町までは車で大体1時間程度。三谷さんによれば、渋滞している可能性もあるとのことだったが、車はすいすいと進んだ。



予定通り1時間で河津町に到着。花見会場には出店が立ち並び、たくさんの人で賑わっている。

生まれて初めて見る河津桜は想像していた何倍も濃いピンク色だった。サクラがバラ科の植物だという話を初めて聞いた時は驚いたが、確かに河津桜にはバラのような艶やかさがある。

さらに、川沿いには菜の花が満開で、雲ひとつない青空に河津桜のピンク色と菜の花の黄色のコントラストがよく映えていた―――

にもかかわらず、そこには思ってもみなかった色彩の暴力に心が怯んでいる自分がいた。一人立ちすくんでいると、


「ビールでも飲む?」


と様子を伺うように三谷さんが声をかけてくれた。


「私まだぎりぎり未成年なので」

「そっか。じゃあ、その分たくさん食べな」


そう言ってイカ焼きとたこ焼き、瓶ラムネを買ってくれる。


「美味しいです」

「伊豆の海鮮は生でも美味いからね。そりゃ焼いても美味い。俺は元々都内に住んでてさ、あの居酒屋の常連だったわけ。でも、初めて伊豆に遊びに来た時に食べたとろさばの干物が美味くて、それで引っ越してきた」

「そんな理由で引っ越したんですか」

「そんな理由って言われても、俺にとっては大きな理由だよ」


まだこの季節は肌寒い。三谷さんの鼻を啜る音が聞こえる。


「まぁ、人それぞれですもんね」

「うん、そうだね。帰りに忘れず干物買って帰りな。美味いよ、酒が進む」

「だから私まだ未成年ですって」


この人は私のことを何歳だと思っているのだろう。横目で顔を見ると目が合ってしまって、二人声を出して笑った。



***



花見も十分満喫し、駐車場へ向かう途中


「そうだ、友達にお土産買う?」


どこに目をやっても河津桜のピンク色が飛び込んできて、なんとなく頭が働かない。


「うーん、見るだけ見ていいですか?」

「もちろん」


お土産を買う友達なんていないけれど、とりあえずお土産屋さんに足を踏み入れる。


「いらっしゃいませ」


小柄な品のいい老夫婦が経営している小さなお土産屋さん。良かったらどうぞと桜あんの入ったピンク色の可愛いお饅頭を試食させてくれる。

せっかく試食までさせてもらったのだから、何か買わなきゃと思っていると、菜の花が一面綺麗に咲いているポストカードが目についた。


「すみません、今いただいたお饅頭とあそこにある菜の花のポストカードを1枚お願いします。」

「それなら菜の花と一緒に河津桜が綺麗に写ってるのもあるよ」


そう言うと店の奥から満開の河津桜と菜の花が並んでいるポストカードをおじいちゃん店主が持ってきてくれたけれど、やっぱり私には暴力的な気がした。


「すみません、なんとなくこっちの方が好きな感じがして」

「そう、でもせっかくだからこれも持って帰ってちょうだい。サービスサービス」

「いいんですか。ありがとうございます」

「それと、はい」


そう言って、手にみかんを2つ持たせてくれた。


「彼氏さんと1つずつどうぞ」

「あ、ありがとうございます」


思い出して店の入口に目をやると三谷さんがこっちを見守るようにして立っていた。

わざわざ否定する必要もないけれど、こういう時はなんて答えるのが正解なんだろう。気まずくならなくて良かったと胸をなで下ろして三谷さんの元へ向かう。


「このあとどうする?ちょっとドライブでもしようか」

「ええ、いろいろとありがとうございます」

「よし、南の方に行こう」


2人はまた白いミニバンに乗り込む。少し緊張も解けて好きな食べ物のことや趣味のこと、仕事のことなどいろんな話をした。

三谷さんは知り合いの元で内装の仕事をしているらしい。

ひとしきりたわいもない話で盛り上がり、しばし沈黙した後に


「あのさ、さっき伊豆に引っ越してきた理由は干物が美味かったからって話をしたでしょ」


ぽつりぽつりと言葉の途切れる音が聞こえてきそうなくらい弱い声で三谷さんが話し出した。


「聞きました」


先ほどまでとは違う空気感に私の顔が強ばっていることに気づく。


「…伊豆に遊びにきた数日後に付き合ってた彼女が死んだ。車通りの多い道路に赤信号の中、急に飛び込んだらしい」

「え…」


急な告白をされて心臓がおかしなリズムを刻んでいる。絞り出すように


「そうだったんですね」


と言うのがその時の私の精一杯だった。


「ああ」


たった一言、その三谷さんの返事から後悔の念が感じ取れた。付き合いの浅い私になんでこんな話をしてしまったのかという小さな後悔と彼女の異変に気づけなかった大きな後悔。


「…こんなこと聞いていいのか分からないですけど、三谷さんが引っ越した理由としては、その出来事が大きかったんじゃないですか?」

「そうかもね。環境を変えたかったんだと思う」

「本気で、好きだったんですね、その方のこと」

「ああ、好きだったよ」


そう言って、三谷さんは今にも泣き出しそうな顔で笑った。

カーステレオからはBUMP OF CHICKENの『宝石になった日』が流れている。

本当に私の人生はとことんタイミングが悪いな。次々と流れ込んでくる歌詞を、言葉を、握りつぶすように強く強く自分の手を握りしめた。



車内はお互い無言の状態が続いていた。その中で付き合いの浅い私になんでこんな話をしてしまったのかという三谷さんの小さな後悔がむくむくと大きくなっているのを感じとり、何故か無性に腹が立ってきた。

負の感情を消化するために窓の外へ意識を集中させていると《あいあい岬》そう書かれた小さな売店の前にソフトクリームサインが置かれていることに気がつく。

それを見た私は意を決して口を開いた。


「三谷さん!ソフトクリーム食べませんか?いろいろお世話になってるからお礼に。ちょっと寒いかもしれないですけど」


少しの間、無言でいたからか声が上ずってしまったが、そんなことは気にせず早口でまくしたてる。


「ありがとう。じゃあ少し休憩しようか」


小さな売店のテーブルに腰掛けて、"さくらソフト"という味の想像がつかないソフトクリームのメニューを眺めていると


「さくら味のソフトクリームなんてあるんだな」


私の視線に気づいた三谷さんが独りごちた。


「それにしますか?」

「いや、俺はチョコバニラかな」


なるほど、三谷さんはあまり冒険が好きな人ではないらしい。

三谷さんはチョコバニラソフト、私は生キャラメルソフトを注文し、しばらくするとソフトクリームがスタンドに2つちょこんと乗った状態で運ばれてきた。


「なんかかわいい」


少し不格好なフォルムのソフトクリームを見て思わず呟くと


「良かった、ちゃんと子どもっぽいところもあるんだなって思ってちょっと安心した」


三谷さんがいたずらな顔をして笑うので、釣られて笑ってしまう。


「ずっと大人びた子だなって思ってたからさ」

「それにしてもまだ未成年なのに、お酒飲める年齢だと勘違いするのは酷いです」

「ごめんごめん」


顔の前で手を合わせて謝る三谷さんは私より8年も長く生きているのに、私とそんなに変わらないようにも見えた。


「ご馳走様でした」

「いえ、そんな大したことしてないです」

「ううん、美味しかった。ありがとね。そういえば、最後に連れて行きたいところがあるんだよね」

「ええ、ぜひ」


そう言って来た道を戻っていく。

先ほどと変わらず無言の車内。ただ私も三谷さんも何か言葉を交わそうとは思っていなかった。

車内にはケツメイシの音楽が流れている。私はこの曲をよく知らない。にも関わらずいい曲だなと感じた。


「着いたよ」


そう言って連れてこられた先は海だった。


「ここは伊豆の白浜海岸っていう場所なんだけど、聞いたことある?」

「有名ですよね。聞いたことはありましたけど、来たのは初めてです」


2月の白浜海岸は当然のように寒く、それに加えて今日は風も強い。そのせいで車から降りると髪の毛がバサバサとなびいた。波は荒いけれど、海の底にある"本来は目に見えない何か"さえも透けて見えそうなくらい、綺麗な海だった。


「あー、息ができる」


大きく息を吸い、伸びをしながら三谷さんが呟く。


「え?どういうことですか」

「あれ?なんか、そういうのない?息ができるなって感じる瞬間とか。さっき話した彼女とさ、付き合う前に初デートで海に行ったんだ。海に到着して、開口一番に"息ができる…"って呟いているのを聞いて、なんだそれって思ったんだけど、彼女が死んでから初めて海に来た時に分かった。息ができるっていうのがどういう感覚なのか。皮肉だよね。」


この時の私はよほど眉間にシワでも寄せていたのだろうか。三谷さんの口調が少し焦っているのを感じとり


「私にもあるかもしれないです」


なんてつい嘘をついてしまったけれど、そんなことは今までに一度たりともなかった。



心を病んで、うまく息ができなくなった私は酸欠の金魚のように口をぱくぱくと動かしながら死んでしまうのか、それとも、いつかはこの苦しみが嘘のように消えてなくなるのか、なんてことばかりを考えていた。

息ができる瞬間、場所、人の存在。私にだってきっとあるはず。そんな確信めいたものがはらはらと心に散らばっていく。



その後、夕日を見ようという三谷さんの提案で日没の時間まで車の中で待機していたけれど、どこからともなく現れた雲が全てを覆い隠して、結局夕日は見られなくなってしまった。


「せっかく綺麗な夕日が見れそうだったのに、残念だったね」


と悔しがる三谷さんに


「また来たいなって思ってたから、タイミングが良かったかもしれないです。夕日はその時の楽しみにとっておきます」


そう言葉をかけると


「またいつでも遊びにおいで」


と優しい笑顔で言ってくれた。



そういえば今の時期、大学はどこも春休みだ。授業自体がないのだから、サボれば大丈夫なんて嘘は聞く人が聞けばすぐにバレてしまう。

三谷さんが私に連絡をくれたのは本当にただの偶然だったのだろうか。それとも…



その日の夜に私は東京へ帰ってきた。

潮風を浴びた髪の毛のゴワつき。そして、息抜き、と、生き抜き、が同じイントネーションだということに気づけるくらいの心の余裕をお土産に。

***
 


息をする。口から吸って口から吐く。
なーんだこれでもちゃんと息できてるじゃん。

今日も私は息をする。吐いた白い息がまっすぐに、長く、伸びていく。

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