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たけし映画の『首』は『戦メリ』の首を解体出来たのか?

 お蔵入りになると思われていた映画『首』を観た。

 確かにたけしによる大島渚(黒澤明も)へのリスペクトは感じたが、その裏には大島との距離も微かながら感じてしまう。”衆道”を題材の一つにしていることは『戦場のメリークリスマス』(83)や『御法度』(99)と同様だが、叛旗を翻しているようにも受け取れたからだ。前2作でのたけしは出演者の立場ながら、”衆道”というものから徹底して背を向けている。
 それはたけしが望んでいたことでもあるが、その決定権はたけしにはなく、大島にあるので、正直主題から遠ざけられたという複雑な思いもあるのではないか?
 大島なりにたけしに重要な役をふっていたし、観客側もたけしを絶賛して(特に『戦メリ』)いたことは事実であるが、自身はどう思っていたかというところだ。たけしも自作で”衆道”を題材にしていたこともあり、『その男、凶暴につき』(89)でも同性愛者を登場させているが、テーマにしていたわけではない。たけしに”衆道”自体に興味はないと自分は思っているだろうが、ホモソーシャルに関しては最重視している節がある。自作のほとんどが男社会の縮図が網羅されているからだ。

 本作のテーマは、武家社会に生まれ”首”に固執せざるを得ない信長や光秀に対して、首なんかどうでもいいと秀吉が言い切るところで(たけしもそう明かしている)、秀吉=たけしからすれば、「そんなの別のものにすげ替えりゃいいだろう」という話だ。簡単に言うと武家社会からはるかに遠い出自を持つ秀吉と、知識階級に距離を置いているたけしは似ているというわけだ。
 逸話にもあったように小姓として充てがわれた美少年にも「そちに姉妹はいるか」と尋ねるくらい、”武士の嗜み”に縁のない庶民の秀吉にその傾向は皆無だ。衆道は武家や貴族の専売特許であったからこそたけしは秀吉を選んだとも言える。
 『戦メリ』にもデビッド・ボウイが演じたセリアズ(キリスト)の首には、大島のテーマであった衆道とホモソーシャルと美学がこれでもかというぐらいに詰め込まれており、その結果死ぬまでそれを切り離すことが出来なかったが、本作は美学や武士道なんて知ったことかと首の争奪戦には一歩引いている秀吉の視点ということで、たけしがそれを切り離してしまっている。
 だが、たけしだって大島の呪縛からは逃れることが出来ない。”「武士道」なんてヘンな理屈”と言いながら、自分だって初期の代表作では個人的な死生観や美学を追求していたし、最近の『アウトレイジ』シリーズの主人公大友にもそれをうっすらと感じる。
 衆道を馬鹿にしているくせに、男の絆と男色は違うとでも言うのだろうか?イコールとまでは言わないが、グラデーションのように重なっている部分はあるというのに。
 バイオレンス性には申し分はないが、その破綻を本作で総括してくれればもっと爽快な気分を味わえたと思うのだが…
 

 補足したい部分も多い。

 信長の尾張弁は字幕が欲しいが秀吉の標準語は残念という斎藤綾子*1の意見には同意だ。江戸っ子の自分が尾張弁を使いたくないというのは監督としてどうなのかとも思う。その分字幕が欲しいと思わせるほど加瀬亮に徹底的に尾張弁を捲し立てさせ、結果的に覚醒させているのである。菅貫太郎や稲垣吾郎の当たり役になった『十三人の刺客』の暴君松平斉宣を想起させるからだ。

 全般的にちぐはぐなキャスティングだ。三英傑の年齢のことを言うわけではない。そんなことはどの作品にだってある。享年を考慮すればむしろ当然のことだ。
 まずいちばん忍者らしい中村育二が、もと甲賀忍者とよく言われている滝川一益にふさわしいが、インテリヤクザ役が得意な矢島健一が、本多正信ではなく、それと真逆な武闘派で同じ姓の忠勝を演じるのは、新境地であえて起用されたようには全く思わない。この話に徳川チームの軍師が他にいるわけではないのだから素直に起用してよかったのではないか?

 あと半蔵が立派に描かれすぎ。桐谷が『アウトレイジビヨンド』(2012)ではひどい殺され方だったので、ちょっとよくしてあげたのか?それともダメな半蔵に描かれた『どうする家康』への意趣返しか?架空の般若の佐兵衛(寺島進)ならどう格好よく描いても構わないと思うが。

 西島版の光秀は、己にも天下への野心はあると言うものの、やっぱりたけしの世界の中ではどうしてもお行儀のよさが浮いてしまい(『Dolls』という例外もあるが)、元々の光秀のパブリックイメージを覆せない(ハゲ呼ばわりも金柑頭だからだろうし)感じだ。なんだかんだ言っても結局は村重を殺せない(史実上でも生き延びるから仕方ないか)。

 秀長ももう少しなんとかならなかったのか?大森南朋は常連だが、たけし作品でない秀長だったらもう少し秀長らしくなっただろう。やはり常連の浅野忠信が演じている官兵衛を引き立てるためか、本来あるだろう知性が封印されている。えび掬いは要らないが。

 六平直政の安国寺恵瓊は、恵瓊ベスト3に入ると思う。
 利休のキャスティングも申し分はないのだが、現代劇の『その男、凶暴につき』の若き日の岸部一徳の方が何故か利休らしかった。現在の方が利休の年に近いのに。遠藤憲一の村重も役の立場的にはやはり『その男、凶暴につき』がフラッシュバックしてしまう。

 以下のような指摘などどうでもいいことだというのは分かっている。
 史実の再現を要求するつもりはないが、そこまで開き直られてしまうとどうしても一言二言は言いたくなってしまうのだ。

*1 「週刊文春」202311-30 シネマチャート

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