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安彦批判はいかがなものか

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会【復刻版】』を上記と同じタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。加筆修正はありません。

 復刻したことで本書が予言書であることが改めてよく分かる。約30年前に刊行されたこの同人誌は、今からすれば、前史エヴァであり、前史ウテナであり、前史攻殻機動隊とも言えるのだ。なぜなら本書に関わった者の代表作による産声が、まもなく響く予定だったからである(オネアミスだけは既に産まれているが)。

 「映画『逆襲のシャア』の検証、総括、啓蒙、そして文化的遺産として後世に残すために企画、編集してある。」

 「『シン・ゴジラ』を創れた御陰で『シン・エヴァ』が形になった様に、『逆シャア本』を作った御陰でTV版『エヴァ』を進める事が出来たと思う」

 どちらも庵野秀明が本書を刊行するに至った決意表明の一環であるが、前者は30年前も現在も序文で打ち出している言葉であり、後者は復刻版で近況を訴えている言葉である。前者の序文といい、後者の”近況報告”といい、まるで『逆シャア』を踏み台にしてのし上がってしまったという懺悔(実は豪語)のようにも聞こえるのだ。

 確かに『エヴァ』に踏み台にされた『逆シャア』への再評価のために刊行されたと言われればそれまでの話だが、庵野に依拠しなければ埋もれてしまうようなヤワな作品でもないはずだ。何しろ『逆シャア』が公開された88年は84年に引けを取らないアニメ映画の当り年である。現に『逆シャア』は、テロリズムを題材としたアニメ作品でのジャンルを築いており、後続作品も『逆シャア』をフォーマットにしている作品も少なくない。
 テーマに則れば、本書に関わった者が、作品論とテロを直結させてしまうのは無理もない話である(関係者も読者もテロものが好きだということもあるが)。このテーマで、特に核心に迫っているのは押井守と幾原邦彦だ。

 「本来あの作品というのは、多数の人が支持する世界じゃないから、あそこで語られてる思想というのはあくまで、絶対的な少数者の思想なんだよね。」(押井)

 「つまり、隕石を落としたくなる気持ちっていうの?(中略)ま、愚民の人達がスポンサーの名の元に安全圏で作品を作れと言ってるわけですね。」(幾原)

 つまり独裁と革命は紙一重であり、選ばれた者がやることで、あまり理解されない少数者が革命を起こした結果、その革命家が独裁者となるに至る物語という意味である。要は1人が東京湾に処理水(汚染水)を放出しろ!と主張してもマジョリティの理解を得ることができないというのが少数者の思想なのだ。

 テロを語ることがテーマの一つではあるが、それをどうやって見せるか、すなわちかの有名な「パンツを履いてるじゃないか」発言というのが本書のキモであり、最大のテーマなのである。他のインタビュー対象者も語っているように富野由悠季の思想が赤裸々過ぎるところが庵野の逆シャア愛、富野愛なのである。

 「(富野さん自身が)全裸で踊っている感じが出ていて、好きなんです!宮さん(宮崎駿)の最近の作品は『全裸のふりして、お前、パンツ履いてるじゃないか!』という感じが、もうキライでキライで。」と庵野は富野の目の前で語り倒す。

 確かに『紅の豚』は宮崎の私生活を赤裸々にしていることでブルジョワジーが見え隠れするところに関しては庵野の言いたいことはよく分かる。それに随分経った後に公開された『風立ちぬ』だって全裸になったようにも言われているが、結局は作り手・経営者の綺麗な懺悔に過ぎないもので全裸にはまだまだ足りていない。
 それにしてもパンツ発言を繰り返しながら庵野自身はどうなのだ?完結した『シン・エヴァ』は完成度は高いが庵野こそ立派なパンツを履いているのではないか?むしろテレビ版『エヴァ』の方が欠陥品ではあるものの『シン・エヴァ』よりはるかに全裸である。
 ある意味庵野こそ後退しているのではないか?

 本書でどうしても首を傾げてしまうところが一つある。弟子である庵野の宮崎批判ならともかくとして(鈴木敏夫がいること自体単なるじゃれあいにしか思えないし宮崎への打撃にもならない)安彦良和批判だけはそりゃないだろうと思ってしまう。まるで辞めた部員の悪口を言っているようにも感じてしまうのだ。しかも『逆シャア』のスタッフの1人でもある庵野は、安彦批判を続ける鈴木や押井の暴走を止めることが出来ず、まるで鈴木や押井があたかも自分たちが富野の代弁者としてふるまい熱弁をしているようにも感じどうにもいただけない。

 安彦が『逆シャア』への参加を蹴った原因は、シャアの地球へのアクシズ落としの決行なのではと気がしてならない。『安彦良和の戦争と平和』(杉田俊介)で「『逆襲のシャア』は未だに見ていない」と明かしつつ結末は断片的に聞いているという。安彦自身活動歴もあり漫画もテロリズムを扱う作品は多いが、『逆シャア』とは真逆で主人公は確信犯のテロリストではなく、選ばれた者であっても覚醒することはなく最後まで市井のものとして終えるのである。そして『逆シャア』を見ていないといいながら自著『機動戦士ガンダムthe origin』であえて『逆シャア』の台詞を使うことで断じてその結末にはならないことを断言しているのだ。安彦の作風は社会的で群像劇には向いているが富野の作風は特化した思想を追求することに向いている。『逆シャア』は参加しなかった個人を責めることで持ち上げられるような作品なんかではない。むしろ安彦作品を比較対象にした方がはるかに有意義ではないか。

 「『Z』で思い知ったんじゃない?安彦さんを失った富野さんっていうのを。」

 と幾原は看破していた。さらに「安彦さんと富野さんは絶対に相容れないだろうと思う」という考察もその通りだとは思うし、相容れないというのなら、例えは乱暴だが、梶原一騎(出崎統)とちばてつや(杉野昭夫)という相容れないはずのものが化学反応を起こす可能性だってあったはずなのである。

 厳しめに記してしまったが向かないはずの責任編集と司会を、あの庵野がやり切ったこと自体奇跡のようにも思っている。本書の復刻は読者にとっても幸福だったのだ。

 ただ気になるのはらしいと言えばらしいのだが、本書でも美樹本晴彦はアムロの美しい画のみで一言も発しないことだ。代名詞といえばあくまで『マクロス』だが、思い返せば随分ガンダムを手掛けていたのだと今さらながら思い知る。美樹本はガンダムをどう思っていたのだろうか?それも聞いてみたいものだ。


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