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自閉症少女の大きくて小さな冒険【500ページの夢の束感想】

 自分以外の人間にとって世界はどう見えているのだろうか。きっと同じものに見えている人はいないだろう、何らかのハンデを抱えている人であれば尚更に。

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 こちらのタイトルは元々スタートレックを追っていた際にシリーズではないもののスタートレックを題材とした映画であるということで知り、気にはなっていたのですが配信が見当たらず後回しになっていたのですが先日、dTVに配信があるのを見つけついに見ることができました。

あらすじ
 ”『スター・トレック』が大好きで、その知識では誰にも負けないウェンディの趣味は、自分なりの『スター・トレック』の脚本を書くこと。
 自閉症を抱える彼女は、ワケあって唯一の肉親である姉と離れて暮らしている。
 ある日、『スター・トレック』脚本コンテストが開催されることを知った彼女は、渾身の作を書き上げるが、もう郵送では締切に間に合わないと気付き、愛犬 ピートと一緒にハリウッドまで数百キロの旅に出ることを決意する。500ページの脚本と、胸に秘めた“ある願い”を携えて-”
     amazonプライムビデオ「500ページの夢の束」あらすじより引用

 自閉症の人間にとって世界がどんなものであるかどれだけの不安と悪意に曝されているのかを丁寧に描いている。主人公のウェンディは自閉症であるがゆえにそうしたハンデのない人と比べて不自由な生活を強いられている。そうしたハンデを抱えた人たちにとって世界はどう見えているのか。

 なぜ彼女たちは不自由な生活を強いられているのか。それは悪意からではない、むしろ悪意や彼女たちが理解することのできない世界から彼女を守るためのものである。

 こうした不自由について誰でも思い出せるものがないだろうか。自閉症でなくとも誰もが子供の頃は保護という目的のために行動を制限される。歩けるようになり、自転車に乗れるようになり、分別が身につくようになり、自動車の免許を取ることもできるようにもなる。社会のルールやあり方を徐々に身に着けるのだ。特にその世界が一気に広がってゆく10代の頃には誰もが外界に出ることへの不安とワクワクを覚えるものだろう。

 ウェンディの話に戻ろう。原因は少々異なるものながら彼女はその社会に対する理解できなさから保護されている存在だ。ルールを破りグループホームを抜け出し、渡ってはいけないという大きな横断歩道を越える、普段乗る路線バスとは勝手の異なるバスに乗る。そして慣れていないその手つきを怪訝な目で見られる。こうしたプロセスの心理をカメラは淡々と映すやや引き気味だが常に彼女の目線で。素晴らしいのはウェンディ役のダコタ・ファニンフの演技だ。知らない世界に出るという強い不安や緊張とそこに混じる隠し切れない高揚感といったものを彼女の表情は見事に表現して見せた。誰もが当たり前に渡る交差点は彼女にとって大いなる挑戦なのだ。この一連の流れは10代の頃に感じたような未熟ながら保護という枷を外し世界が広がっていく頃の不安とワクワクを思い出せるシーンとなっていたといえるだろう。

 結果から言ってウェンディの挑戦は成功する。ロサンゼルス行きのバスに乗るまでは。

 続いて、ウェンディの失敗が描かれる。バスのルールを破り、犬を連れていたことがバレてしまい置き去りにされ、強盗に遭い、ついには商店で商品の値段を水増しされる。「普通の人」なら当たり前に守ることができるルールに躓き、当たり前に警戒できる危機に陥り、「普通」の人相手なら騙そうとも思わないような詐欺に引っかかりそうになる。「普通」に従えず、「普通」なら警戒する悪意に無防備で、「普通」なら無縁な悪意さえもが襲い掛かってくる。ここについて先のような共感はない。ただひたすらに現実が叩きつけられる。「私ならこうはならない」ただひたすらにそれだけだ。それだけの本来理解しえない苦悩がを見せつけられ、彼女たちの不自由さの根源そのものが襲い掛かってくるのだ。

 スタートレックの脚本コンテストに提出する作品をパラマウントまで運ぶという大目標も単に物語上の最終目標となっているだけではない。
 スタートレックは多様性を持った作品である。その中にスポックというキャラクターがいる。詳しくは各々で調べていただきたいがバルカン人という地球人とは異なるし思考構造をしており感情を強く抑制している。ウェンディはそのスポックを自身と重ね合わせ、心のよりどころとするような人物として描かれている。
 そのため、知っているとより楽しめるという要素も多い。しかしながらオタク映画とはなっていない塩梅も楽しいものとなっている。

さすがにクリンゴン語*で会話し始めたシーンは少々笑ってしまったがこれもクドくはない。あくまでウェンディを探す警官が彼女がスタートレックファンであることを知り柔和に対応する手段としてクリンゴン語を互いにオタク同士であると知らせるために使っているということは話の流れとしてもわかるものではないかと思う。特に警官がクリンゴン語でQapla' (クァプラ:成功を祈る)とウェンディに檄を飛ばすシーンは鳥肌ものだったといっていい。

 *スタートレックに登場する架空の言語。場当たり的に使われる謎言語ではなく体系づけられた人工言語となっておりISO言語コードに登録されていたり、Googleの検索ページやBingの翻訳ツールでもクリンゴン語にも対応するなど現実の言語並みに扱われることもある。


 しかし個人的に結末部分には一定の問題があると考えている。ついにパラマウントにたどり着き、提出しようとするウェンディに提出方法に問題があり受け付けてもらえないという事態が発生する。彼女はこれを強行して乗り越えてしまうわけだがこれは彼女の抱える問題の「ルールを守れない」に当たる。これは「渡ってはいけない交差点を越える」タイプ違反ではない。どちらかと言えば「ペット禁止のバスに犬を乗せる」違反と同類のものである。
 この「ルールの守れなさ」は彼女にとってハンデであるはずである。ルールを守れないことでやはり制裁は受けるものであるとバスの一件で一度描いたはずなのである。
 ここをファンタジーとして通すならばバスの一件は隠し通せてしまわなければならなかったのではないだろうか。
 これまで通りウェンディにとっての世界をリアルに描くならば暴力的な突破はあってはならなかったはずである。ここでおとぎ話にしてしまうかリアルにするかというポイントをどちらにも振り切れず煮え切らなかった部分が残ってしまったが感あり単純に物語が訴えかけようとした部分を作品自ら濁してしまったような印象を受けてしまい読後感がよくない。

 ただ、エピローグにおいてお互いを受け入れ、望む場所に一歩近づくという流れは心温まるものだ。


 ちなみにこの映画の原題は「PLEASE STAND BY」(そのまま待機)なのだがこれはスタートレックにおいて不測の事態に遭った際状況を判断できるまで待機せよという意味で時折使われるもので、ウェンディが自身を落ち着ける際に自分自身で唱える言葉として登場している。

 スタトレオマージュ要素はないが「500ページの夢の束」という邦題もなかなかワクワクさせるタイトルだとは思うのだが実は作中で脚本のページ数は427ページと明言しているため1割以上水増しされた枚数になっているのがモヤっとするところではある。

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