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命の価値と、物の価値。そして人間の価値。

鶏の丸焼きを食べながら思う。
この鶏の命は1680円なのか、と。

ある意味それは正しい。その鶏を「食べ物」としてみた場合である。
しかし、そのものが持つ価値=値段と決めつけるのは時期尚早である。値段によって価値が付随しているのではない。値段は、単に需要と供給の落ちどころを示しているにすぎない。

何が言いたいかというと、俺の食べた鶏の丸焼きは、鶏を食べたいという需要を持った俺からしたら、1680円という価値を持っていた、ということである。これは、その鶏の価値=1680円を示しているわけではないことに注意していただきたい。

それぞれの要素に分けるとこんな感じだ。

価格の決定者:俺
需要(要望):食べたい
対象物:鶏
価格:1680円

ここで、「価格の決定者はお店じゃないの?」という疑問に答えておこう。確かに、お店での販売価格を最初に決定したのはお店だ。しかし、その価格を適性と判断し、最終的に認めたのは私である。もしその価格に納得していなければ、鶏を頼むことはなかった。そういった意味で、価格の最終決定者は私となるのだ。

では、次のような場合ではどうだろう。対象物は先ほど僕が食べた鶏とする。

ある男が、ペットとして鶏を飼いたいと思っている。どこのペットショップを巡っても、犬や猫はたくさんいても鶏はどこにも見当たらない。あきらめかけていたその時、お店で鶏が今にも殺され、丸焼きとされかけているのを見かけた。男は駆け寄り、「その鶏を僕にください!」と叫ぶ。お店の人は、「3000円ならいいよ」と言うと、男は二つ返事でOK。めでたく男は鶏をペットにすることができたのだった。

こんな状況が果たして本当にあるかどうかは謎だが、先ほどと同様、要素に分けてみよう。

価格の決定者:男
需要(要望):ペットにしたい
対象物:鶏
価格:3000円

同じ鶏でも、需要が変われば価格が変わる。ここがポイントである。鶏そのものが持つ価値は、何一つ変わっていない。(丸焼きにされた鶏は、なんなら調理という工程が入っている分、価値が上がっているはずである。例えば、僕が鶏の丸焼きを食べたいからといって、生きている鶏を買うならば、殺す→血抜き→羽を毟る→調理するの手間を考えれば、500円ぐらいなら買ってもいいかな、と思う)

わかりやすく、鶏に値段をつけるという事例を示したが、これは人間界の他の事象にもよく当てはまる。

例えば、会社で上司に批判される時、就活でなかなか内定がもらえない時、パートナーとうまくいかず別れてしまう時などなど。
人はこのような時、ともすれば「自分って価値がないんじゃないか」と感じてしまう。しかし、これらは全て、マッチングの話であり、二者間でしか生じ得ない話である。つまり、たまたま相性が悪かっただけ、相手のニーズに答えられていなかっただけであり、その人の持つ価値が否定されたわけでは全くない、ということだ。
全く同じことをやっていても(つまりその人自身は何も変わっていないとしても)、他の会社では、褒められるかもしれないし、内定が簡単にもらえるかもしれないし、他のパートナーとうまくやっていけるかもしれない。

いずれにせよ、全ての人間は世界に一人しかいない唯一無二の存在であるので、他人の評価を過度に気にすることなく、自分だけが持っている価値を大切にすればいいと思う。他人の意見なんてクソ喰らえ、だ。

(追記)
なんとなく、この記事と相性がいい気がしたから僕の動画置いておくね。


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