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見ると覗くのちがい

こら、見ちゃだめよ。
見ない方がいいよ。
なんで見るの?

手話で話しているのを見かけると、見てはいけないものを見てしまうような罪悪感に襲われる。
という話を聞きました。

手話教室では「ろう者の会話を見ていいのか迷う」と質問が出てくると、ろう者は「ん?見てもいいのに、なんでわざわざ遠慮するの?」と不思議そうな眼差しになります。

日本語は耳で聞くものだけれど、手話は見るものなので「見てないと話が分からないのでは?」と思うのですが、どうやら私が思う「見る」とは少し違うようです。日本語で言うなら「覗く」感じに近いのかもしれません。

聴者がじっと見ることに不慣れなだけかもしれませんが、確かに見知らぬ人が私たちの会話をじっと見ていたら「なんじゃ?」と喧嘩を売ってしまいそうです(冗談)。

聞き耳を立てる、盗み聞きするという言葉があるように、手話も見ていいのではないか?と私は問うてみました。
聞かれてはまずいという話がある時は、囁くような感じで小さな声で話したり場所を変えたりするのと同じで、見られてはまずい時は場所を変えます。目の前で繰り広げる会話は見ても全然問題ないはずです。

大事なのは、同じ空間にいる人が知っている者同士であるかどうか。知らない者同士であれば言語の前に、人としてのマナーとして「じっと見る」ことは控えます。ただ、初めて会う者同士でも同じプロジェクトを抱えていたり、何らかの共通点があれば、会話に入るか入らないかを判断するために「見る」。

これが、ろう者同士は自然にできていて、手話学習者にとっては戸惑いを覚える場面でもあるのかもしれません。

「見る」と「覗く」は似ているようで、感覚的には別物なのですがそれをうまく整理できてないまま「こら、見ちゃダメよ」というふうに混同しているのかもしれません。

ただ、とはいえ、手話で話しているからといって終始、ずっと黙って見ているだけでいいというわけではないのでもう少し丁寧に紐解いて考えてみたいテーマでもあります。

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