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スープを飲む子どもの姿に見るもの 山村暮鳥「單純な朝餐」を読む

こんにちは、詩のソムリエです。
子育てのなかで考えた、詩のはなしをちょこっと話す「こどもと詩」シリーズ。世界の詩を見渡しても類を見ない、朝ごはんのシーンの詩を紹介します。

さわやかな朝

朝起きると、まず考える。1歳半の子どもに、何を食べさせようか。さつまいものポタージュをあたためつつ、目がさめてグズる子どもを抱っこしてリビングに連れてきて、椅子にすわらせる。青い小花柄のクッションをとりつけた白い椅子。子どもはニコニコと小さな手をぱちんとあわせ、「いただきます」をする。

さいきんなんでも自分でやりたがる彼は、わたしがスプーンを持つと首をふってイヤイヤする。「自分でやりたいよね」とスプーンをもたせると、ニコッ。まだ4本しか生えていない前歯が、白くキラリと光る。

そんな、いつもの朝に読みたい詩。

單純たんじゅん朝餐あさげ」山村暮鳥

スープと麺麭パン
そしてわずかな野菜
何といふ單純な朝餐であらう
朝も朝
の新しい一日のはじめ

スープのにほひ
ぱんのにほひ
その上に蒼天のにほひ
一家三人
何といふ美しい朝餐であらう

山村暮鳥(やまむら・ぼちょう)の「單純な朝餐」。朝の食卓をうたった美しい詩だ。

"スープのにほひ
 ぱんのにほひ
 その上に蒼天のにほひ"

澄みきった朝の空気、天の上までのぼっていく匂いまで感じる。

パンとバナナだけ出す日もあるわたしとしては、パン+スープ+野菜なんて「単純」どころかとても素敵じゃないのと思うが、それはさておき、「貧しくても、家族がそろった朝ごはんは満ち足りている」ということなのだろう。牧師でもあった暮鳥の美や規範への意識ーいわゆる「清貧」というコトバが思い浮かぶ。

続きを見てみよう。

屋根から雀もおりて來よ
此の食卓はまづしいけれど
みろ
此の子どもを
此の小さな手にそのさじをもつたところを
ひもじさをじつと耐へて
感謝のあたまを低く垂れ
わたしらのやうにたれ
わたしの祈りをしづかにまつてゐるではないか

此の食卓に祝福あれ!

同上

屋根から雀もおりてここに来なさい、と呼びかけているのがなんとも平和だ。そして「此の小さな手にその匙をもつたところを」というところが、たまらなくかわいく、愛おしい。「みろ」って言われなくても、たぶん見ちゃうなぁ。

「かわいさ」の正体

この詩のなかの「子ども」は、2歳くらいを想像するが、みなさんはどうだろうか?

わが子は一歳2ヶ月ごろ、自分でスプーンを持って、スープを飲むようになった。ついこのあいだまでおっぱいを飲んでいたような気がするけど、思い返せばここまでの道のりも長かった。

お粥をうす〜くしたものからはじまる離乳食

生後6ヶ月ごろから離乳食を開始し、離乳食の本とにらめっこしては野菜を煮てミキサーでピュレにしたり、レバーを潰してペーストにしたり。

「卵の黄身は"耳かき一杯"から?!何その単位」
「ピーマンって皮をむくの?…皮?」

そこには、概念との出会いとでもいうべき新たな扉がいくつもあった。子どもは本当にいろんな世界を見せてくれる。

「ピーマンの皮をむくほうが食べやすい」の左隣は、「おくらの種をとりのぞく」。
パワーワードである。
(※こんなことしなくていいです、たぶん)

生後半年は夜泣きが激しかったので(※個人差あり)、睡眠不足が続き、ある日突然に離乳食づくりがイヤになったこともある。そのときは、「こんな七面倒臭いことをやっているのは人間だけに決まっとる!」と半ギレしながらオランウータンの離乳食事情を調べはじめた。ちなみに、親が咀嚼した食べ物を葉っぱの上に出して子に与えるらしい。「もののけ姫」のサンが干し肉を噛み砕いてアシタカに与えたような感じだろうか。ふーむ、オランウータンも苦労してるんだな…と思って、なんとなく元気を取り戻したのであった。

そんな紆余曲折(?)もありつつ、ときには市販のベビーフードも利用しながら食材リスト一つ一つにチェックを入れていた時期を終え、ようやく大人とほぼ同じものが食べられるようになってきた、今日このごろ。

そういうわけもあって、わが子が、ちいさな手でちいさなスプーンをつかみ、ちいさな口にスープを運ぶ姿は実に感慨深く、すごくすごくすごーくかわいくて、じっと見てしまう。

自分の子を授かるまでは、子どもがなにかを食べているシーンをテレビや街で見かけると、「微笑ましいなぁ」くらいは感じていたけど、いまや、もう、見ていて脳が爆発するんじゃないかと思うくらいかわいくてたまらない。

ほうれん草のポタージュを飲む息子。

それをまわりの人に臆面もなく言ったら、高校生の子どもをもつお母さんたちは、「あーわかる。今もかわいいよ。見ないでって怒られるけど」、と口々に言う。そうなんだ。親の愛とは、まだまだわたしの想像をはるかにこえている。

「此の小さな手にその匙をもつたところを」には親の愛と、これまでの日々がつまっているのだ。

食べることは生きる力

愛おしむ気持ちだけではなく、頼もしい気持ちもまた詩につまっているのかもしれない…とふと思う。

というのも、うちの子はよく食べる。よく食べるので体も丈夫で、保育園ではやっている感染症にかからなかったり、かかってもすぐにケロッと治ったりしている。

ちなみに今日のことだが、ちょっと実家に帰り両親と食事した。わたし(30代)がよく食べるのを見て、母が「忙しそうだけどあなたの食べっぷりを見て安心した。食べることは生きる力だから」としみじみ言っていた。(朝カレーいけるタイプです)

子どもが食べている姿というのは、生きる力を見ることでもあるのだと思う。生命としての力づよさを。それで安心するのだろう。

牛乳を飲む息子。頼もしい。

そう思って詩を読み直すと、これは「清貧」の美しさをいっているのではなくて、清貧という背景におかれて輝く、子どものもつ無限のエネルギーをうたっているようにも思えてくる。子どもは思っていたより強い存在でもある、ということをしみじみ感じる。

子どもが食べる姿という単純な美しさに、思いを馳せる朝。
そういえば、「美」という漢字も、「大きな羊」(=食べもの)の表形文字なので、美と食は関わりが深いのかしら。

まぁ、実際の「子どもの食卓」は詩のようには美しくなく、食後は床やテーブルをせっせと掃除することになるのだけど…。
今日もいただきます、ごちそうさま。 
そしてまたあした。

《おまけ》
よりリアルな食卓は、黒田三郎氏の「小さなユリと」を見られたし。そちらも、バタバタ、イライラとするシーンもありながら、美しい瞬間を切り取った名詩。

小説では、スタインベックの「朝めし」がピカいち。渓谷での朝のシーン。

いためたベーコンを深い脂のなかからすくい上げて錫の大皿にのせた。ベーコンは、かわくにつれてジュウジュウ音を立てて縮みあがった。

若い女は錆びたオーブンの口をあけ、分厚い大きなパンがいっぱいはいっている四角い鍋をとり出した。

あたたかいパンのにおいが流れると、男たちは二人とも深く息を吸い込んだ。 若者は、ひくい声で、「こいつはたまらねえ!」と言った。

スタインベック『スタインベック短編集』大久保康雄訳

ああ、カリカリのベーコンが食べたい。

現実の朝ごはんは、新宿のベルクで食べる雑多なドイツ風モーニングが好き。
明日は健康診断なので水しか飲めないことを忘れ、おなかがぐうぐう鳴ってきたのでこのへんで。

***

これまでの「こどもと詩」シリーズ

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