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【進撃の巨人という哲学書】34.特別じゃない僕たち ~48話~

アニメタイトル:第48話 傍観者

あらすじ

しばしの平和な時間です。
ヒストリアは女王となり貧し子供たちを救います。
困っている人がいたらどこにいたって見つけ出し助けに行く。それがヒストリアのやりたい事でした。

エレンはウオールマリア奪還の為に硬質化の実験を続けています。
同時に、断片的な記憶を繋ぎ合せ、父グリシャ・イエーガーとキース・シャーディスの関係にたどり着きます。
キース・シャーディス。
第104期訓練兵だった頃の教官であり、調査兵団第12期団長です。

キース・シャーディスの思い出話です。

当然、一般市民が壁外へ出る事は禁止されていますが、ある壁外調査で壁の外に佇む一人の男を捕えました。
その男がエレンの父グリシャ・イエーガーの若かりし頃でした。

キース・シャーディスは調査兵団団長として「自分は特別なのだ」と「選ばれし者なのだ」と壁外で巨人と戦い続けます。
しかし壁外調査を繰り返してもなんの成果も得られません。
死人や怪我人ばかりを増やす調査兵団に民衆は批判的です。
ただ一人、グリシャ・イエーガーだけが、キース・シャーディスを「お前は特別だ。選ばれし者だ。」と称えます。
二人には友情が芽生えます。

時がたち、グリシャ・イエーガーは酒場の女、カルラと結婚します。エレンの母です。
カルラに昔から好意を持っていたキース・シャーディスは複雑な思いを抱えながらも友の結婚を祝福します。

そして。またしても壁外調査から、またしても痛手を追って戻ってきたキース・シャーディス団長。
キース・シャーディスを慰めるようにカルラはといます。
「壁外調査などいつまで続けるのですか?死ぬまで続けるつもりですか?」と。
それはカルラの優しさであったのですが、キース・シャーディスの誇りを深く傷つけてしまったようです。

キース・シャーディスは調査兵団第12期団長を下り、エルヴィンが調査兵団第13期団長となります。
そして巨人の出現で壁が破られエレンの母カルラは巨人に食われてしましました。
グリシャ・イエーガーは「エレン母さんの敵を打て」とエレンの手をとり知らない森へ連れて行きます。
稲光が光ったのでキース・シャーディスが駆けつけるとエレンが倒れていました。
キース・シャーディスはエレンを保護しました。

それがキースの思い出話の全てです。


あれこれ考えてみよう。

「壁外調査などいつまで続けるのですか?死ぬまで続けるつもりですか?」というカルラの優しさの言葉にキース・シャーディスは心にもない暴言をぶつけてしまいます。

キース・シャーディス
「なぜ凡人は何もせず死ぬまで生きていられるかわかるか!?まず想像力に乏しいからだ!その結果何も成しえずただクソを垂らしただけの人生を恥じることもない!偉業を成し遂げること!いや…理解することすら不可能だろう!そのわずかな切れ端すら。手当たり次第男に愛想を振りまき酒を注いで回るしか取り柄のない者なんぞには。決して。」

それにカルラは怒るで哀れむでもなく言うのです。

カルラ
「特別じゃなきゃいけないんですか? 私はそうは思いませんよ。少なくともこの子は。偉大になんてならなくてもいい。人より優れていなくたって。だって、見て下さいよ。こんなにかわいい。だからこの子はもう偉いんです。この世界に生まれてきてくれたんだから」

キース・シャーディスはこのカルラの誇り高き母の強さに、ギリギリ保っていた自尊心が砕かれました。

さあ。今回はキース・シャーディスの葛藤を考えてみましょう。

彼は「特別」という言葉にしがみつくように、成果を上げようと戦い続けました。
しかし成果は上がらず、ただただ部下達の死者だけを増やし、民衆からは帰還の度に罵倒を浴びました。

キース・シャーディス
「私は……ただの傍観者にすぎなかったのだ…私には何も変えることはできないのだから」

彼は自らを「傍観者」と蔑みます。
しかし「傍観者」という表現は少し違和感があります。
成果こそ上がらずとも必死で戦ってきました。けして「傍観者」ではないと思います。
「特別」という言葉に囚われていたとしても「特別」ではなかった自分を「傍観者」と表現する事にピンときません。
「特別」の反対語を探すなら「普通」」「無能」「凡庸」などという表現であれば分かります。
しかし、敢えて自らを「傍観者」としています。
何故でしょう?

その心を当時、キース団長に指揮官として憧れをもって共に戦っていたハンジはこう言い放ちました。

ハンジ
「あなたほどの経験豊富な調査兵がこの訓練所に退いた本当の理由がわかりました。 成果を上げられずに、死んでいった部下への贖罪…ではなく、他の者に対する負い目や劣等感、自分が特別じゃないとかどうとかいった…そんな、幼稚な理由で現実から逃げてここにいる。」

つまりは「特別になれなかった自分は、ただの傍観者だった」ということで、強い自己否定をする事で、自分に言い訳をしているように聞こえます。
だからこそ、子供の存在そのもの全てを肯定するカルラの母の強さに打ち砕かれからです。

しかしひねくれ者の私はもう一つ逆説を感じます。

カルラの言う「だからこの子はもう偉いんです。この世界に生まれてきてくれたんだから」これは常套句です。
「生まれただけで百点満点」そんな書物に救われた青春の日々もありました。
確かに人は生まれただけで素晴らしい事だと思います。
しかしその一方で「生まれたからには何かを成し遂げたい」それも人の性であり、それがないなら生きているとは言えないとも思うのです。

「生まれただけで百点満点」
それは心がズタズタに傷ついた時の優しい薬でしかなく、この言葉だけにすがっては、それこそ言い訳だけの人生になります。
それこそが人生の傍観者です。
人は生まれた事、それ自体に意義がある。それは当然の大前提です。それに反論はありません。
しかし、「生きる」とは「生まれた」事とは違います。
生きるとは母から離れた己の力です。
生きるとは己の意志で、己の力で戦う事です。

そういう意味ではキース・シャーディスはしっかりと生きた人です。
彼がいう「傍観者」とは言い訳ではなく、けじめなのでしょう。
それも完全に白旗を上げたというけじめです。。
勝負は時の運。「白旗」でもいいのです。しっかりと生きたならいいのです。

大切なのは「特別」でなくとも、コテンパンに負けても、問題は自分の人生を自分で生きる事です。

ロクデナシ by THE BLUE HEARTS

役立たずと罵られて 最低と人に言われて
要領よく演技できず 愛想笑いも作れない
死んでしまえと罵られて このバカと人に言われて
上手い具合に世の中と やって行く事も出来ない
全ての僕のようなロクデナシの為にこの星はぐるぐると周る
劣等生で充分だ はみ出し者で構わない。
お前なんてどっちにしろ いてもいなくても同じ
そんな事をいう世界なら 僕は蹴りを入れてやるよ
痛みは始めのうちだけ 慣れてしまえば大丈夫
そんなこと言えるあなたは ヒットラーにもなれるだろ

生まれたからには生きてやる
生まれたからには生きてやる
誰かのサイズに合わせて自分を変える事は無い
自分を殺し事は無い ありのままでいいじゃないか
劣等生で充分だ

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