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【進撃の巨人から見る心】43歴史の全ては物語だ。  ~57巻~

アニメタイトル:第57話 あの日

あらすじ

グリシャの半生のお話は続きます。
書物に書かれているエレンの父、グリシャ・イェーガーの青年期の物語です。

グリシャ18歳。父の診療所を継ごうとしていました。
患者に妹の死の真相を知っている男がいました。
患者は自らを「エルディア復権派」だと言いました。

グリシャ
「そこで妹の事件の真相を知った時、心に誓った」
「本当の悪魔はどちらか教えてやる、我々の祖先がやったことは正しかったのだ」
「再び世界を正すためには、エルディアを復活させなくてはならない」

グリシャはこの患者の導きでエルディア復権派に加わります。

エルディア復権派にはフクロウと呼ばれるマーレ政府の内通者がいて、その姿なきフクロウの情報や指示によってエルディア帝国の復活を模索していました。
グリシャはエルディア復権派の中心メンバーとして思想を深め、活動をしていきます。

そこにフクロウが遣わした王家の血を引くダイナ・フリッツが現れます。
王家の血を引く彼女、ダイナ・フリッツの存在がマーレを滅ぼし再びエルディア復活を夢見るとグリシャは歓喜します。

「「始祖の巨人」は他の巨人すべてを支配し操ることができる」
「これさえ手にすれば我々は再びマーレを討ち滅ぼすことができる」

「始祖の巨人」は145代のフリッツ王が戦う事を放棄してパラディ島に引きこもったのです。
それ以来、大陸はマーレ大国の支配となり、取り残された我々エルディアはこのような奴隷のような生活をしているのです。
「始祖の巨人」の力を王家の血を引くダイナ・フリッツに継承すれば、全ての巨人を支配し操る事ができます。

「戦おう!やるべきことは明確だ、我々を見捨て壁の中に逃げた王から「始祖の巨人」を取り戻す」
「そして、我々エルディアの民のために大陸に踏み留まった真の王家(ダイナ・フリッツ)に、「始祖の巨人」をお納めするのだ」
「同志諸君よ、マーレを打倒し、偽りの歴史を正し、エルディアの誇りを取り戻すのだ」

そして、翌年ダイナと結婚し、男子を授かりました。
その子の名前はジーク

王家の血を引く子の誕生です。


あれこれ考えてみよう。

グリシャは成人し、エルディア復権派の中心人物となりました。

エルディア復権派とはなんでしょう。
マーレ人に「悪魔の血筋」と言われ奴隷のように扱われているエルディア人です。
マーレ人の洗脳によってエルディア人も自分達は「悪魔の血筋」だと信じ込まされています。
マーレ人のご加護のおかげで、このマーレ大国のエルディア収容地に住まわせてもらっていると信じ込んでいます。
そう信じ込むことでしか生きていけない奴隷なのです。
エルディア復権派とはその状況を打破しようとする反逆の徒です。

歴史とはなんでしょう。
私は歴史とはどこまでも物語だと考えます。
「史実にそって歴史検証を。。。」などといいますが、それは無理です。
史実と史実を結ぶ物語を人は捻じ曲げ作り上げます。それが人の感情です。
「勝てば官軍。負ければ賊軍。」とはまさしくその通りで、歴史は勝者が作った物語です。
ですが忘れてはならないのは敗者が作った物語もある事です。

「確かに古代史は物語の部分は多いだろうが、近代史には共通の史実がある。その史実に基づいて。。。。」
と、歴史学者をはじめ、国際社会のいざこざが起こるたびにそんな言葉を聞きます。
が残念ながら断言します。唯一無二の史実はあっても唯一無二の歴史などあり得ません。
それが私の見解です。
何故なら、数年前の私の離婚であっても、その史実は私の物語であり、元妻には元妻の物語であり。または第三者の見物人にもこの離婚劇を物語として眺めています。
共通の視点などありえません。
確かに、何月何日に○○があったという点としての史実は紛れも無い史実でしょう。
しかし、私たちは断片的史実を重ねて生きているのではありません。物語を連ねて生きているのです。
史実とはその膨大な物語のほんの一点でしかありません。

話を進撃の巨人に戻します。
誰一人古文書をまともに読めないのにエルディア復権はの面々は「フクロウ」が提供した歴史文献のイラストを漠然と眺め、
「我々の始祖ユミルは巨人の力に目覚め、荒れ地を耕し、道を造り、峠には橋を架けた」
「つまり、始祖ユミルが人々にもたらしたものは富だ」
「人々を豊かにし、この大陸を発展させたんだ」

と信じ込みます。
マーレ人から刷り込まれた始祖ユミルは悪魔だ的な歴史とは真逆の歴史だったんだと信じ込みます。
その根拠は
「なぜなら俺は始祖ユミルを信じている」
「俺達は選ばれし神の子、ユミルの民だ」

というものです。

これはもう根拠なきカルト宗教です。
マーレにはマーレ人の作った歴史という物語があり。エルディアにはエルディア人の作った歴史という物語があるのです。
お互いの心情が違うのであれば、そこに史実などないのです。
あるのは、後世の人間が後世の環境から見る前世の「こうあってほしい」「こうであってにちがいない」「だから今の我々はこうなんだ」という願望でしかないのです。

これと全く同じ議論を時より耳にします。
日本の先のアジア進出の是非を評論家が口にします。
「日本は各地を植民地にしたのではない。その各地に橋をかけ、鉄道を通し、近代化の手伝いをしたのだ。」と評論家が口にします。
これは始祖ユミルを称えるエルディア復権派と同じですね。
それを現地の人が喜んで望んでいたとは限りません。
言葉を奪われ名前を奪われ。強制労働を強いられ、それでも求める近代化とはなんでしょうか?
サシャの森人達が近代化の為に喜んでその森を明け渡したとでもいうのでしょうか?
いつの時も、その土地の決断はその土地の者に権利があります。
それが強制であるのならば、どんな善行も正義も、現地の当事者にとっては悪と思われても仕方ないのではないでしょうか。

事実を見る視点は無数にあります。
歴史に大切な事は断片的史実ではなく一人一人の物語です。

だから。大切な事は史実などというほんの一粒の点ではなく、お互いの物語に耳を傾ける事です。
お互いの物語に涙を流して、お互いの物語をここで結びあい、これからの物語を共に喜びに変える事なのではないでしょうか。

歴史は物語であると共通認識ができたなら。
歴史は未来が決めるものなのかもしれません。

まあ、それができないから民族間の争いは終わらないのですが。

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