見出し画像

蜜柑 芥川龍之介 【読書感想文】 ~一瞬を切り取る描写力~


今回は「ぼんやりとした不安」を抱える現代人への感想文です。


①あらすじ

私は日々疲労と倦怠を抱えて列車に乗っている。
同じ車両に13,14歳のみそぼらしい小娘が入ってきた。
しばらくすると、少女は必死で窓を開けようと悪戦苦闘を始める。
ついには列車がトンネルに入ろうとしたそのタイミングで窓を開けてしまう。
当然、濛々たる煙が車内に充満し、私は苦しく咳こむのだが、小娘はそんな私を気にもしていない。
たまらず叱って窓をしめさせようとした時に列車はトンネルを出て景色が広がる。
すると、踏切りの柵の向うに、三人の男の子が立っている。
その三人が汽車に手を振っている。
小娘も大きく手を振ったかと思うと。
汽車の中からその少年たちに蜜柑を5つ6つ投げ落とした。

暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮あざやかな蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬またたく暇もなく通り過ぎた。

そう。きっと。
奉公先に赴こうとする小娘は、見送りに来た弟たちに蜜柑を投げ渡したのである。

私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。

という物語


②泣ける。

こういう物語に弱いのです。
どうにか感想文を捻りだそうとしばし。パソコンの前でしばし。---言葉が出ないのです。

暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮あざやかな蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬またたく暇もなく通り過ぎた。

という声と色と風や香りまでが感じられる描写力。

好き~。芥川好き~。
時にはこんな私情丸出しの感想文でお許しください。

③一瞬を切り取る

さて。

「ぼんやりした不安」という言葉を残して自殺した芥川でありますが、。
「ぼんやりした不安」は僕にもあって。多分、誰の心にもあると思うのです。

それはこの「蜜柑」の冒頭にある

私の頭の中には云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。
であり。
その思いがある一瞬の感動で

私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。
と変わる事があるのです。

それであるなら、その一瞬の感動を繰り返し持ち続けるのであれば、人は「ぼんやりした不安」に負けずにすむのかもしれません。
その為に、人は
詩を生み。物語を生み。俳句であったり。短歌であったり。
映画であり。ドラマであり。絵であり。彫刻であり。
日記であり。つぶやきであり。大切な人との会話であり。SNSであり、酒であり。

一瞬を切り取ることの連続で人は生きているのかもしれません。
一瞬を切り取ることの連続で人は生きられるのかもしれません。

「ぼんやりした不安」という言葉を残して自殺した芥川は
けしてその「ぼんやりとした不安」に負けたのではなく。
その「ぼんやりとした不安」を一瞬の感動に描写する為に死を選んだような気がするのです。

④まとめ

繰り返しになりますが
一瞬を切り取ることの連続で人は生きているのかもしれません。
一瞬を切り取ることの連続で人は生きられるのかもしれません。

つまりは、その一瞬を感動する力。
それこそが生きる力なのではないでしょうか。

暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮あざやかな蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬またたく暇もなく通り過ぎた。

僕らも日々、このような風景とすれ違っているのかもしれません。
それを見落としているだけで、それを描写する力がないだけで。
。。。
僕らも日々、このような風景とすれ違っているに違いないのです。

一瞬を切り取る為に
「ぼんやりした不安」に潰されないために
僕は詩を書くのです。

「ぼんやりした不安」に潰されないために
あなたは何をしていますか?


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?