見出し画像

【進撃の巨人という哲学書】30 正義の正体 ~42話~

アニメタイトル:第42話 回答

あらすじ

クーデターが成功しました。
腐りきった嘘っぱちの王政から、まともに人類を救済しようとする兵団が実権を握りました。
民衆は喜びと共に大いなる戸惑いの中にいます。
「我々民衆は何を求めて何を信じたらいいのか分らない」と。
それはそうでしょう。今まで信じていたものが全て嘘だったと言われても戸惑う事は当然です。

車に同乗するザックレ総統とエルヴィン。
二人だけの空間にそこは兵団総統と調査兵団団長という関係ではなく、単なる人と人との会話です。
どのような想いで二人はこのクーデターを実行したのでしょうか。


あれこれ考えてみよう。

エルヴィン
「人類を思えば、あのまま王政に託すべきでした。ピクシス司令の言う通り、今日まで人類を巨人から生き長らえさせた術があります」
「人類の半数を見殺しにするようであっても、人類が絶滅するよりかはいい」
「エレンを手放し、仲間の命も、自分の命と共に責任を放棄し、王政に託すべきだったのでしょう。人よりも、人類が尊いのなら」

エルヴィンは自分が行ったクーデターは本当に人類の為だったのかを今さらながら悩んでいます。

ザックレー
「私がなぜ王に銃を向けたのかは、それは・・・昔っから、王政が気にくわなかったからだ。」
「むかつくのだよ、偉そうなヤツと、偉くもないのに偉いヤツが・・・。人生を捧げて奴らの忠実な犬に徹して、この地位に登りつめた。クーデターの準備こそが、生涯の趣味だと言えるだろう。つまり、君達がやらなくても私がくたばる前にいっちょかましてやるつもりだった。私はこの革命が人類にとっ良いか悪いかなどには興味がない」
「私の大した悪党だが、しかしそれも君も同じだろう?君は死にたくなかったのだよ。私同様に、人類の命運よりも個人を優先させる程に。君の理由は何だ?」

エルヴィンは穏やかな顔で答えます。
「自分はとんだ思い上がりをしていたようです。私には夢があります。子供の頃からの夢です。」

さあ~。行きましょう!この二人の会話は深かい。深すぎます。

先ずエルヴィンが言う【人よりも、人類が尊いのなら】という言葉が気になります。
人も人類も人ですよね。
個としての人と集としての人類を言っているのでしょうか?

ぱっと思い浮かんだのが「人命は地球より重い」という言葉です。
1977年秋。ダッカの日航機ハイジャックの際、人質を解放する変わりに、犯人側の要求(身代金と逮捕されていた仲間の釈放)を認め、時の総理大臣だった福田赳夫が、言った言葉です。
人質の命は地球より重いは分ります。しかし、それにより、凶悪犯達を野に放つ事で、人類はより多くの犠牲を生む可能性を受け入れたのです。
この判断の善悪は私には分りません。

ここでのエルヴィンは、エレンを調査兵団を守る事で、エレンの能力を使って人類を守る事を宣言したわけです。
その指揮を執るのがエルヴィンです。
王政に任せていたら人類の半分は死しても半分は守れたかもしれません。
王政には例えそれが無能であっても「今日まで人類を巨人から生き長らえさせた術があります」
しかしエルヴィンがやろうとするのは賭けです。0か100かの賭けなのです。
【人よりも、人類が尊いのなら】というのは。
王政のままに何もせず人類がじわりじわりと減って行く事を許容するか。人類滅亡のリスクを追っても巨人と戦うか。です。

そのエルヴィンの迷いを笑い飛ばす様にザックレーは言います。

「私はこの革命が人類にとって良いか悪いかなどには興味がない」と
つまり、この全ての兵団のトップにいるザックレーは全く個人的な思いで王政を倒したのだと言うのです。
気に食わない奴らを倒したかっただけだよと笑うのです。
これを人間臭さだと。微笑ましいじゃないかと。思っていいものでしょうか?
少なからずクーデターのリーダーであれば、それなりの主義主張や大義名分があってほしいものです。
しかしです。実際はこんなものなのかもしれません。

プーチンも。
「我が歴史あるソビエト連邦が民主主義国家の手にそぎ落とされる事が気に食わないのだよ。」
「国名はロシアとなったが、あのソビエト連邦の時代を取り戻して、英雄として死にたいのだよ。」
「あの芸人上がりの若造が気に入らないのだよ。」
って。そんな個人的な好き嫌いや名誉心だけで起こした戦争なんだという推理は、そんなに的外れな事ではないと思うのです。
逆に言うなら全世界を納得させられるような主義主張や大義名分があるなら聞いてみたいものです。
そしてなんの罪もない民衆が殺し殺されるのです。敵も味方も殺されるのです。
これが。戦争の実態なのかもしれません。

ザックレ―の告白にエルヴィンは救われたような表情で答えます。
「自分はとんだ思い上がりをしていたようです。私には夢があります。子供の頃からの夢です。」

なにか事を起こす時に大義名分は必要でしょうか?
人民の為。正義の為。神の為。。。
人はその行為に大義名分をつけて、その行為を正当化しますが。
考えてみれば、その全ては後付けのような気がします。
その行為の原動力はもっとシンプルに、個人の欲望なのかもしれません。
個人の欲望の集合が社会変革であってクーデターであって。
最も愚かな戦争という行為も。どこかの誰かの欲望でしかない気がしています。

だから正義とは恐ろしいのです。
正義とは個人的欲望の集合体かもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?