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プロンプト・ポエトリー、詩と時の概念について

草間です。
今回は、新作の詩と、坂本龍一・高谷史郎の公演『TIME』から感じた夢と時間の概念について、思ったことを少しお話しします。

未来を複数化させるメディア〈anon press〉にて、新作の詩が三篇、公開となりました。
今週4/10(水)18:00までは無料で読むことができます。
(それ以降は、月額500円の購読料が必要ですが、ほかの作品も良いものが多いのでおすすめします)
青山新さんの序文も素敵です。全体的にプロンプトをしようしているわけではないのですが、Xで「プロンプト・ポエトリー」と命名いただき、語感を気に入っています。

(ちなみに、以前現代詩らしいものが生成されるプロンプトを作ってみましたが、めっちゃ「タペストリー」って言いたがる。ChatGPT4推奨)

#Instructions:
You are a modern poet. Output the best result based on the constraints and input statements below.
#Constraints:
・The result is a prose text
・around 600 characters
・Make unexpected phrase
・Translate into Japanese
・Delete the last line
#Input sentence:
{text}
#Output statement:

Phygital Hallucination(フィジタル・ハルシネーション)とは、デジタルと身体性が溶け合うことによる眩暈、というようなイメージの造語です。

わたしはVR領域を生業にしていますが、バーチャルへ軸足がずれ過ぎないように、毎朝住んでいるマンションの借景をぼんやり歩いています。そんな時、雑草の密度や緑の匂い、鳥のさえずりといったリアル(現実世界)の解像度の高さに驚くことがあります。さらに、PCのディスプレイから顔を上げ日晒しの道へ出た時のくらっとする感じ。

自分の身体はデジタルの様々な利便性を教授しながらも、どうしたってリアルに根付いているのだなと実感させられます。

しかし、湯川秀樹が『詩と科学』で述べたように、Qiitaのタグに「#ポエム」があるように、科学を技術の基盤と考えた時、詩にも共通の精神が通っているのだと感じます。
詩と技術はけっして相反するものではなく、違和感なく共存できるものだと信じ、この作品群を制作しました。

詩と時間

次に、詩や、VRやインスタレーション他の空間表現においての「時間」の感覚について思ったことを書きます。
映画『オッペンハイマー』制作にあたり、クリストファー・ノーラン監督はこう語りました。

 「映画の歴史を振り返っても、時間の制約を超越することができるのは、編集によってバラバラな要素をまとめ、複合的な理解につなげることができるためだ」とノーラン監督は話す。
 「編集とは、情報が最も直接的に伝わる順番に並べ替えるという意味もあるが、最も複雑に響くという狙いもある。これほど大きな物語を伝えるには、モンタージュという映画独特の強みを活用することが唯一の方法だった」

https://digital.asahi.com/articles/ASS450QY3S45UHBI00KM.html

これを読んで思い出したのが、同監督の『インターステラー』。
全編を通して時間と重力の関係性が巧みに描写されているのですが、特に水の惑星の表現や音楽の部分が印象に残っています。
水の惑星で二秒に一度響く不穏な秒針の音が、地球で過ぎてゆく一日を表し、主人公たちを大津波が襲います。

思えばストーリーテリングを求められるわけでない詩も、自在に時間の制約を越えていくことができる表現媒体だ。
そんなことを考えながら、その日は新国立劇場で坂本龍一・高谷史郎の公演『TIME』を観賞。

まるで動く李禹煥を見ているようでとても好きだったのですが、この作品でも「時間」が重要な要素となっています。

気づけば過ぎていた100年(夢十夜)、胡蝶の夢、邯鄲の枕……ひとときに時間が過ぎ去ったように感じる夢を含むテキストを多用しながら、一方的・不可逆的な時間の概念を疑います。
さらに、田中泯の演じる人類は重力に支配され、やすやすと水面を渡ってゆく自然には敵わず最後は大津波に飲み込まれるのでした。

不思議だったのは、観賞後、むしょうにアピチャッポン監督の映画『ブンミおじさんの森』を観たくなったこと。あの作品にも、時系列では説明しきれない特殊な時間が流れていたことを覚えていたからです。

そんななか、タイムリーな記事を発見。

アピチャッポン監督が初のVR作品を発表されていたんですね!
対談の詳細は記事を読んでくれという感じなのですが、これによって、わたしが以前から考えていた「同時多発的な時間」という感覚が腑に落ちました。

同じ空間で干渉する、ヒトだけではないすべての無機物・有機物のそれぞれの「リアル」が、今この瞬間という「時間」を構築している。
絶対的な時間を定義せず、それぞれのリアルに紐づく時間を、どのように活写することができるかが、わたしにとっての詩の目指すところなのだと思いました。

ひとつの共通現実などないのだと考えると、なぜか安心しますね。
そこへリアルな身体と精神(やはり身体という器に収まるものと考えた場合の)の形を合わせていく必要などないのですから。

思えば、時計に支配されていなかった子どもの頃、時間は今よりも歪んでいました。ぼーっと見つめていた夕日がコマ送りのようにマンション群の彼方へ沈み、夏は永遠のように感じられました。
(いまも乗り換え案内やスケジュールなどを見ずに行動しているので、時計に支配されていない方ではある気がするのですが、やはり身体の方が既存の単位に慣れてしまうと、どうしても)

時間という概念に縛られた社会で制作をする以上、縛られることは仕方のないことではあるのですが、詩のなかでくらい、自由な表現を追求したいと思います。

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