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2021.4.18. パステルナーク祭り(6)年譜。人生と交友

ロシアの詩人、パステルナークを紹介する全6回の記事も、この年譜で終わりです。

パステルナークの激しい人生と不思議に満たされた交友を回顧します。

1890年 
ボリース・パステルナーク、モスクワに生まれる。父レオニードは高名な画家で、母ロザリヤはルービンシュタインの弟子、ピアニスト。ふたりともユダヤ系。

ユダヤ系の芸術的な家庭に生まれ育つパステルナークです。父のレオニードは、トルストイと交友があり、『戦争と平和』『復活』の挿絵を描いていました。

1900年 10歳
偶然、駅で詩人リルケに会う。リルケはトルストイを訪ねるところで、少年パステルナークに不思議な抑揚のドイツ語を印象づけた。リルケと父レオニードの間には交流があった。

1903年 13歳
作曲家スクリャービンの隣に暮らす期間があり、作曲を志す。

1906年 16歳
ベルリンで、亡命中の作家ゴーリキーに会う。

1909年 19歳
モスクワ大学の哲学科に入学。

1912年 22歳
数年前に出会ったイダ・ヴィソーツカヤ嬢に突然の求婚、拒絶される。哲学を捨ててイタリアの旅に出る。

1920年 30歳
『わが妹人生』の詩集は、未完であったが、同世代の詩人マヤコフスキーに朗読して聞かせた。

ロシアの重要な作家ゴーリキーや、きマヤコフスキーとも交流があったのです。

この後、ソ連となって混乱するロシアからベルリンへの亡命、結婚と、彼の人生は激動が続きます。

1930年 40歳
マヤコフスキー自殺。ジナイーダと恋愛が始まる。

ジナイーダとは同棲し、当時の妻とは離婚。ジナイーダとのあいだに息子も生まれます。

1930年代、ソ連では作家や知識人、文化を擁護する者たちが粛清に合います。パステルナークの周りでも、詩人仲間が次々と殺されるか、収容所送りか、自殺していきます。47歳の時、弾圧に抵抗し、パステルナーク自身も逮捕を覚悟しました。

1940年代 50歳〜
クライスト、シェイクスピアの翻訳。さらにゲーテの『ファウスト』の翻訳にも取り掛かる。母を亡くしたばかりだが、父も亡くなる。

1948年 58歳
長篇小説『ドクトル・ジヴァゴ』の執筆に着手。

1950年代 60歳〜
心臓病で倒れ、病気と療養をくり返す。愛人の生活を援助。その愛人が逮捕され、拷問を受け、パステルナークの子を流産する。

1955年 65歳
『ドクトル・ジヴァゴ』完成。

その掲載と出版をめぐってトラブルが続き、ノーベル文学賞受賞の知らせも受けるものの、『ドクトル・ジヴァゴ』の刊行可否をめぐって受賞辞退を余儀なくされる。

1959年 69歳
詩集『晴れよう時』を整理。結局、遺稿となる。

1960年  70歳
血液癌が肺に転移。死去。


パステルナークの生は、詩となって清冽な雪解け水の輝きを湛えながら、かぎりない春の陽光に照らされるように、ロシアの大地に眠っているのでしょう。


『パステルナーク全叙情詩集』工藤正廣訳 未知谷

以上、巻末の年譜をもとに作成。誠に勝手ながら、厚く感謝申し上げます。

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