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ミヒャエル・エンデ『モモ』(15)エピローグ、そしてお話の全体を考える。

本編のあとに「作者のみじかいあとがき」と題されたエピローグがあります。

ある夜、汽車でひとりの奇妙な乗客とおなじ車室にのりあわせました。
このひとが、その夜の長い汽車旅のあいだに、この物語を話してくれたのです。
「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。
「過去におこったことのように話しましたね。でもそれを将来おこることとしてお話ししてもよかったんですよ。」

そのひとにまた会えたら、色々なことを質問したい、と書いてあとがきは終わります。

***

エピローグの言葉によれば、『モモ』は将来を暗示した物語だとも受け取れます。『モモ』の原著は1973年にドイツ語で出版されています。

今が、2021年。ほぼ50年後ですが、世界は『モモ』のとおりになっていないでしょうか?

上の記事では、9回目までの連載について解説を試みています。

その後をゆっくり見てみましょう。

モモはマイスター・ホラに連れられて「時間のみなもと」に行き、自分の心のなかにある無限の豊かさとでも言うべきものに触れたのでした。

その後、円形劇場に帰ってくると、カシオペイアが

「モウダレモイナイ」

という不穏なメッセージを出します。それまでの間になにが起こったかというと……

ジジは大金持ちの作家になっていました。売れっ子になる過程ではこんな風でした。

ある日、ジジはゆるすべからざることをしてしまいました。モモだけのためにつくってあった物語のひとつを、話してしまったのです。

こうして、心のなかに大切にしまってあったものを、売りに出してしまったのです。後戻りはできませんでした。

ジジもさすがに、こんな生活はおかしいと気づきます。

そうだ、おれがみんなに灰色の男たちのことを話すんだ!

そう思った途端、電話のベルが鳴り、灰色の男がジジをせせら笑います。おまえは無力だ、と。

「ひとつ、いい助言をしてやろう。あまり深刻に考えないことだ。」

自分には関係のないことだから、これまでどおりやろうと思ったらどうか?と声は言って電話が切れます。ジジは引き下がってしまいます。

ジジは受話器をおくと、
声をおしころしたすすり泣きに、からだじゅうがふるえました。

作家ジジの「物語」は、お金と人気をかせぐのには役立ちました。しかし、世界の真実を──灰色の男たちのことを──世の中に伝える役にはまるで立たないのでした。

一方、ベッポはモモのゆくえをたずねて警察に相談に行くのですが、交番をたずね歩くうちに、頭のおかしい不審者とみなされ、精神病院に入れられます。

ベッポは、この物語の人間たちのなかで、一番ものをよく考えられるひとでした。この大都会で最もじっくりと思案した人物が、警察によって精神病院に入れられたのです。

「あまり深刻に考えないことだ。」

という灰色の男のジジへの助言は、こういう意味だったのでしょう。

そして、このような状況で見捨てられた子供たちは、行き場をなくしますが、灰色の男たちは子どもを飼いならす方法を考え、大人を動かします。

すると、乗せられた大人たちは、子どもが遊んでいるのはけしからんと言い出し、子どもたちを道徳的にし、将来役に立つ人材にするべく、<子どもの家>という施設を作ります。子どもはみなそこに収容され、「教育」されることになります。

さて、モモは、町に出て知り合いをたずねます。

小さな居酒屋をやっていたニノは、ガラス張りのファストフードレストランのお店を経営していました。モモの相手をする時間はありません。

レストランでは、不機嫌な大人たちが怒鳴り、文句を言い合い、モモのような子供は押しのけて相手にしませんでした。

次に、モモは親友のジジに会いに行きます。ジジには会えるのですが、ジジは大変な多忙で、秘書を3人連れているようです。

その一人の女性が、モモをいかに売り物にするか、ジジに提案します。ジジはけわしく、それをはねのけます。それに対して女性はこう応えます。

「わたくしたちにはどうでもいいんですのよ。仕事としてやってるだけなんですからね。」

もはや、給与をもらえるから仕事をするのであり、仕事に意義があるから働くのではないのです。

モモはただジジをじっと見つめました。なににもまして、ジジが病気だということ、死の病にむしばまれているということが、よくわかりました。

この「死の病」は、のちに「致死的退屈症」とホラが呼ぶものです。

ジジは別れ際に、「僕といっしょに何不自由なく暮らそう」とモモに言います。モモが首を振ると、その答えの意味をジジもわかります。

これは、現実社会の不条理から逃避するために、恋に走り、あるいは結婚し、ほかを忘れようとする男の振る舞いとして描かれているのでしょう。

そして、ふたりがいっしょにいる間、モモはひと言も口をきけず、ずっとジジがしゃべっていた、と結ばれています。

***

モモはいよいよたった独りになりました。

時間のみなもとで見聞きした、素晴らしい音楽、豊かさ、創造性の源、果てしなく咲く花、そうしたものがモモの心にあふれていました。

しかし、それを誰とも共有できませんでした。これが本当につらい孤独でした。

モモはまるで、はかり知れないほど宝のつまったほら穴にとじこめられているような気がしました。
ときには、あの音楽を聞かず、あの色を見なければよかったと思うことさえありました。

豊かさは、分かち合えなければ、余計にひとを孤独にします。

このモモに、灰色の男たちの魔の手が迫ります。

現れた灰色の男は、モモと話し合いをしたいと申し出ます。モモはいったん引き受けますが、そのあとで怖くなって、一人になると逃げ出そうと考えます。

そして独りで昼夜、繁華街をさすらった挙げ句、郊外でジジやベッポ、子どもの友だちのことを思い出します。

ずっとじぶんのことばかりを考え、じぶんのよるべないさびしさや、じぶんの不安のことだけで頭をいっぱいにしてきたのです!
不安は消えました。勇気と自信がみなぎり、この世のどんなおそろしいものがあいてでも負けるものか、という気もちになりました。

急に、勇気が湧くのです。実は、マザー・テレサの言葉に次のようなものがあります。

自分が傷つくことを考えなくなり、ひとが傷つくことを考えるようになるほど、自分は傷つかなくなっていくのです。

つまり、自分がいかにつらいか、孤独か、不幸か、と考えているうちは、どんどん気持ちが暗くなり、泥沼にはまるのですが、他人の幸福やつらさを気にかけるようになると、自分は奉仕できるようになる、ということです。

モモにも、これと同じことが起きたのです。

モモは灰色の男たちと会い、話をします。その後、カシオペイアに導かれて再びホラをたずねます。そこで、灰色の男たちの秘密と、世界の行く末の危機を知るのです。

マイスター・ホラは、灰色の男たちに脅されていました。ホラが人間に送る「時間」に、彼らは毒を混ぜると言うのでした。それがいやなら、すべての時間をよこせ、と言うのです。

その毒が混ざると、人間は、

「はじめのうちは気のつかないていどだが、ある日きゅうに、なにもする気がなくなってしまう。なにについても関心がなくなり、なにをしてもおもしろくない。」

無関心や無気力になるのです。それから、次第に、

「よろこぶことも悲しむこともできなくなり、笑うことも泣くことも忘れてしまう。そうなると心のなかはひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない。ここまでくると、もう病気はなおる見こみがない。」
「そう、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ。」

J-POPにキングヌーの「三文小説」という曲があります。それは、さっきのジジの様子や、この「致死的退屈症」に至る過程を表現しているように思えます。

これを神経症やうつ病と考えることもできますが、病名を挙げれば解釈が整う、というわけでもないでしょう。

というのも、ホラは(作者のミヒャエル・エンデは)、セロトニンや神経伝達物質の話をしているのでも、カウンセリングを勧めているのでもありません。

もっと根本的な文明の病、深いその病巣に触れているのです。

この後、モモは危険な冒険をすることを決意し、ホラはそれがただ一つの解決策だと告げます。

「わたしはおまえを、はかり知れないほどの危険のなかにおくりださなければならない。」

ホラも、はじめは人間自身が立ち直ることを期待していましたが、今となってはもう無理だ、と言います。

その冒険の内容と、お話のハッピーエンドはこちらにあります。

その紹介は置いておき、最後に物語の寓意とでもいうべきものを、さらっておきましょう。

なお、『モモ』を「寓話」に押し込め、「解釈」してしまうとつまらない部分も大きいですが、ざっと見ておく必要はあると思います。

まず、「灰色の男たち」ですが、これは政府の要人や地位の高いビジネスパーソンの寓意でしょう。彼らが一様にグレーやダークな色のスーツを着ているところを模写しています。

また彼らが、「男」であるのは男尊女卑の価値観のなかで、威張り、権力を使うのは男だからでしょう。また「男たち」と複数形でよく書かれているのは、彼らは常に同じ価値観のなかで群れており、独立していないからです。

「葉巻」は、「死んだ時間」であり、生きた「時間の花」を凍らせて加工することでできています。灰色の男たちは、この葉巻を吸うことによってのみ生き延びられます。これは愛情のない労働から生まれた「お金」でしょう。

時間の花を凍らせて保管する「時間の花の貯蔵庫」は、銀行の金庫です。

では、「時間の花」はなんでしょう?

けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。

エンデのいう「時間」は心の奥底にあるものです。見ようとしなければ、見えません。

時間の花を持つとは、心を込めて、今を生きることかもしれません。

そして、時間のみなもとで流れた星空の音楽は、──それを言えるのは解釈ではなく、詩だけでしょう。

そういえば、子どもたちが<子どもの家>に収容されたあと、灰色の男はモモに、おまえと友だちを見逃してやってもいい、と言い、こう付け加えます。

「おまえたちは、遊びや物語をするさいごの人間になるだろう。」

灰色の男たちによって時間を奪われると、「遊び」と「物語」が失われるというのです。これは面白い言葉です。

「心」が失われる、というのであれば、物言いとしてはすぐに納得できます。しかし、遊びと物語では、なにが失われるのか、ぱっとはわからないかもしれません。

おそらく、それは芸術の死を意味するでしょうし、ここでいう「物語」は、単なる慰めものの小説などを指しているのではなく、神話的なお話、心の声、つまり、祖先と歴史と人間が生きることの根源と未来につながっているなにかです。

そして、遊びは、そういう物語や、物語につらなる感性と創造性を育む、ただひとつの手段なのです。(──遊びと物語、それを合わせたものを「詩の図書館」では、広い意味での「詩」と呼んでいます。)


さて、最後のシーンでモモが、たった一人で強大な灰色の男たちに立ち向かうのは、どういう意味なのでしょう?

これはナポレオンのような、英雄の登場を示しているのでしょうか。

そうではなく、私たちの一人ひとりが、勇気を持って、たとえ隣のひとが灰色の男たちに屈しても、ただ一人になっても、現代文明の病と闇に立ち向かう、そのことにしか救いはない、というメッセージかもしれません。

たとえば、ジジはここでくじけてしまいました。

私たちの一人ひとりが、最後の対決に立ち向かうモモなのであり、今ここで、灰色の男たちに向かって行けるのです。

そのための遊びである物語を、エンデは読者に託したのでしょう。

最後に、エンデのほかの著作を案内すると、『はてしない物語』はやはり児童文学のかたちをとりながら、子供心を失わない人間の生き方について、深い洞察を与えてくれます。

『鏡の中の鏡』は、シュールレアリスムの小説とも言われますが、現代文明の崩壊後を描いたような、いわば未来版の『モモ』かもしれません。

『エンデのメモ箱』はたしか遺稿集で、エンデが格言のようにしたためた言葉がぎっしり詰まっています。知恵の宝箱です。

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