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臨床ってなんだろう? 心理療法家の河合隼雄さんと考える教育

河合隼雄さんは日本の心理療法家、また臨床にもとづく思想家として第一人者でした。

今回は、河合隼雄さんの著書『子供と学校』から、「臨床とはなにか」「教育ってなんだろう?」を考えてみます。

河合隼雄さんは、子どもに心理療法をするうちに、教育の現場で「心」が軽視され、「問題」が起こったら罰すればいい、となっていることに気づきます。

そこから、ご自分の仕事の意味(今で言うカウンセリングに当たる)を考えます。

臨床心理学というのは、clinical psychology の訳語である。クリニックという語の語源は古代ギリシア語のクリニコスであり、「ベッド(床)」を意味している。

そして、もともと「臨床」というのは、死の床に臨むことであり、宗教的な用語であった。

死んでゆくひとのベッドのそばにあって、そのひとの魂の世話をすることが、「臨床」であったのだ。

それはいうなれば、死という悲しい事実のなかに、それを超えた光を見出す仕事だったのである。

それを教育に適用してみると、

病気や休息(それを広くとって、遊び)の方に光を見出すような価値観をもって、教育を見直すことはできないだろうか。

しかし、健康や仕事がどうでもいい、というのではない。

健康や仕事に価値があるのは当然である。そのことを認めたうえで、だからといって、死、病い、遊びなどを全否定するのではなく、そのなかに光を見出すようなダイナミックな価値観をもって、教育を見直そうというのである。

では、「どちらも大切ですね」で終わりだろうか。

勉強も大事だが遊びも大事ですよ、というような安易な並列では意味がない。遊びとはなにか、遊びの本質とはなにかという問いかけを、自らに課す姿勢が必要である。

ここで、河合隼雄は、遊びの哲学を探究したオランダの哲学者ホイジンハやフランスのカイヨワに言及しています。

ここで、思考を深めていく河合隼雄は、教育を臨床と捉えるならば、そこにはパラドックスがある、それを見つめようと言います。

まず、教育基本法をみると、

「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、」

云々、と書いてあります。

これを読んで反対するひとはまずないであろう。立派なものである。

しかし、他方で河合隼雄さんが出会って来た、ユニークで業績のある方々の子供時代というのは、これに照らすとイレギュラーなことが多かったのです。

学校へ行かない子、うそをつく子、自殺未遂をした子、学校をサボって映画ばかり見ている子、盗みをする子、と書いてゆけばきりがないが

これらの子供たちがいまや社会の第一線で活躍する人々になっているといいます。

教育は方向性を持ち、目標や理想をかかげねばならない。

しかし、そこで正の価値を追求することだけに焦ってしまうと、とんでもない失敗を犯すことになる。

負の価値に見えるものから、大きな人物が育つのですから。

このパラドックスを大切にしなかったら、真の教育はなし遂げることができない。

つまり、「正しいもの」をかかげ、それだけを追求するカタイ姿勢では、かえって教育としてはうまくいきません。といって、「グレればよい」という真逆のことだけを言っていても、天の邪鬼でしょう。

このふたつの価値の間で、パラドックスに向き合い、取り組みを続けることが大切なのでしょう。


『子供と学校』河合隼雄 岩波新書 1992


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