2021.4.14. パステルナーク祭り(3)波と海、チフリスとカフカースの山
ロシアの詩人、パステルナークを紹介する連載です。(1)(2)のリンクは記事末に張ります。
今回は中期の詩に移り、『第二誕生』という詩集から引用します。
なお、詩のなかから目についた詩文を抜いています。原文がこの通りに連続しているわけではありません。
波
ここにすべてがあるだろう 経験と
いまだわたしの生が依所(よりどころ)にしているもの
わたしの眼前に海の波
数えきれないほど無数だ
群れになって 筒状にまくれながら
全速力の憂愁で
わたしはモスクワの家に帰りたい
憂愁を晴らす がらんとしたアパルトマンへ
大詩人たちの経験のなかには
自然な特徴があるが
それは経験した以上
完全に沈黙してはいられない自然さだ
存在するものすべてとの血縁性を確信し
生活の未来とつきあいながらも
しまいには 異端に陥るように
未曾有の素朴さに陥らざるをえない
しかしその素朴さを隠さない場合には
世間は容赦しない
その素朴さは人々にとって何よりも必要なのに
しかし彼らには複雑なものの方がはるかに分かりやすい
そして足をその卵白につけよう
パステルナークは海の波を見ながら、人生の来し方へ思いをめぐらせたのでしょう。自分の経験もまた、海のような広大な場所へ還り、そこで逆巻くように思えたのかもしれません。
そして、詩人は、偉大であれば、なにもかもがつながっていることを、この海の前で確信するのですが、その至りついたシンプルな境地は、表現すれば、むしろ世間から反感を買います。
それが「素朴さ」と呼ばれ、「世間は容赦しない」と言われています。
つまり、「複雑な社会は息苦しい。わけがわからない!」と叫んでいる方が、シンプルな真実を受け入れるよりも、安易で楽なのでしょう。
べつのおそらく「無題」である詩より。
窓 譜面台 そして谷間にこだまが満ちるように──
演奏されたすべてが絨毯にみちている いや 語られぬほどに
たれさがった楽譜線の青い森と
中庭 ここでわたしの友は暮らした ずっと
ずっと以前 わたしはここからシベリア圏へ思いを馳せたが
しかし友自身がオムスクやトムスクのような都市だった──
パステルナークの詩は、韻文であるというばかりでなく、大変に音楽的だと思われます。それが「譜面」や「楽譜」という言葉とぴたりと合います。
さらにべつの詩より。
ときとして人を愛することは──重い十字架
しかしあなたはまっすぐな美しさ
あなたの素晴らしさの秘密は
生の謎を解くことと同じ
春には夢のささやき
新しい知らせと真実の さやぐ音が聞こえる
こともなく目覚めて見つめ
心から言葉の塵をふり払い
ここでは、めずらしく女性が純真無垢であるかのような描かれ方をしています。これは理想化しているだけでなく、むしろ、その女性を感受する詩人の心が純真無垢へと変化した、という印象を受けます。
あいかわらず雪また雪
夕闇は 火酒のズブロフカをふりかけ
スープには茴香(ういきょう)をきざんで入れる
こういった異国情緒を感じさせる、土地の言葉も、パステルナークの詩によく出てきます。
姿をあらわした故人たちの魂のように
氷河の全景が眼前にあった
チフリスはあまりにも見事に目測の範囲と自然すべてを
嘲笑い
まるでそこでは 生命が止まり
そしてチムール軍が山岳の背後から来て
旧ソ連の雄大な自然を謳い上げています。チフリスは現ジョージア(旧グルジア)の首都。
次の詩は、やはりカフカスという地名が入っています。そして、人生の雄大な流れへと、詩心の奔流は注ぎ込まれるようです。
いましばし カフカースよ カフカースよ
あなたが何をささやき 何をわたしに教えているのか
おお わたしは何をすべきなのか!
高さに心臓が動悸し
峰々の香炉が揺れているとき
わが遥けき遠さよ
わたしは 日々の流れに
一族の流れをころがす生へと投げ込まれた者
鋏で水を切るよりももっと難しく
わたしは自分の生を裁断しなければならない
幻想を恐れるな 苦悩するな 他力のままに
わたしは 愛し 考え 知っている
見よ生きることの透かし織は
河をも別の存在とは考えてはいない
はるかなカフカスの山の遠さを見つめながら、手にすくうことも、留めることも、分節してとらまえることもできない、生の流れを河にたとえています。
『パステルナーク全叙情詩集』工藤正廣訳 未知谷
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