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ミヒャエル・エンデ『モモ』〜間奏曲〜『モモ』ってどんなお話?

今まで、9回にわたって『モモ』のお話を紹介してきました。

ここで一回、立ち止まり、どんなお話なのか少し考えてみましょう。

『モモ』についてよく言われるのは、「寓話(ぐうわ)」だということです。つまり、現実の大人の世界を、別の角度から見て、そのまちがったところを見つけ、子供向けの話に託したということ。

そして、そのまちがいは「行き過ぎた資本主義社会で、あくせく働くと、心をなくす。それはおかしいのじゃないか?」という理解です。

でも、本当にそれだけでしょうか?

もしそうなら、「そんなことはわかりきっている!」と2021年の大人たちも言うのではないでしょうか。子供たちでさえ、頭ではわかっているのではないでしょうか。

最初から、少しだけ読み直してみましょう。

小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。
ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。

これで、周りにいるひとたちは元気になり、喧嘩は解消し、くつろいで仲良くなれます。

モモのように「聞く」ことが、そうして喧嘩や馬鹿騒ぎが起きても、じっと黙って「そこにいる」ことが、今、誰にできているでしょうか?

そんなモモのところへ、街の子供たちが遊びに来ます。「研究船アルゴ号」の冒険遊びは、空想と野性味にあふれています。

このシーンは、あとで出てくる「リモコン戦車」や「完全無欠のお人形 ビビガール」の遊びと対比されています。そうしたおもちゃは、今で言えば、スマホや小型ゲーム機でしょう。

さて、まだ空想の遊びが楽しめた頃、モモとジジ(ジロラモ)は楽しく物語をして、幸せな時間を過ごしました。

「ねえ、お話をして。」モモがそっとたのみました。
「いいよ。だれの話にしようか?」
「モモとジロラモのお話がいちばんいい。」

このシーンでは、ジジの空想力とお話の才能がいかんなく発揮されます。しかし、ジジのお話は「地に足がついて」いなかったのかもしれません。

この後、灰色の男たちがモモを捕まえようとし、モモが逃走した時、ジジは初めて不安と恐怖を覚えるのでした。

この時、ジジは現実に対抗できるお話を持たず、また、お話の世界に逃げ込んでも仕方ないと気づくのです。

さて、床屋のフージー氏が、灰色の男たちに取り込まれるシーンを見てみましょう。

はたして、フージー氏はお金とモノが欲しくて、「時間」を売ってしまったのでしょうか? そう単純ではありません。

「おれの人生はこうしてすぎていくのか。」
「はさみと、おしゃべりと、せっけんのあわの人生だ。」

フージー氏は、この時、自分の仕事にむなしさを感じていました。自分の人生が、つまらない仕事に明け暮れて終わるのではないか、と不安を覚えていたのです。

「おれは人生をあやまった。」フージー氏は考えました。
「おれはなにものになれた? たかがけちな床屋じゃないか。おれだって、もしもちゃんとしたくらしができてたら、」

フージー氏が欲しかったのは「人生の意味」であり、それは「ちゃんとした暮らし」によって与えられるはずのものでした。

つまり、中産階級の見栄えのよい暮らし。

日本で言えば、持ち家と温かい家庭、小綺麗なインテリアと正社員の仕事。そういう暮らしが、独身のフージー氏も欲しくなったのです。

そこへ、灰色の男が来てその弱みにつけいり、「時間」を節約して働けば、より多く自分のための時間を残せますよ、とアドバイスし、時間を数値で評価して提案しました。

フージー氏はそれを飲みます。そして、あくせくと余裕なく働きます。

フージー氏はだんだんとおこりっぽい、おちつきのない人になってきました。

これは、ひょっとして就活や転職の面談でしょうか? それとも、ファイナンシャル・プランナーの提案でしょうか?

こうして大都会の大人たちが、灰色の男たちに感化されるなかで、子供たちは行き場をなくします。

ある男の子は、モモやジジのところへ遊びに来て、こう叫びます。

「おとなは、子どもたちがいやになったんだ。でも、おとなじしんのこともいやになってる。なにもかもいやになってる。」

子供たちは、決起集会を開き、街のなかをデモ行進しました。「時間がぬすまれているぞ!」と。

しかし、大人たちは反応をまったく寄越しませんでした。そこで、ある子が言います。

「どうしようもないな。おとななんて、あてにすることはないんだ。これでよくわかったもんな。おれはいままでだって、おとなを信用しちゃいなかったんだけど、こんごはもうぜったいにあいてにしてやるもんか。」

今の日本や世界で、未成年や若い世代が、エシカルやサステナビリティに本気にならない大人たちに、同じことを思っていないと言えるでしょうか?

『モモ』が、ただ資本主義を諷刺した作品ではないことがわかります。これはもっと、人生の根本にかかわる切実な話なのです。

原著は1973年ですが、今、よりいっそう強くこの社会の根底を抉(えぐ)っているように見えます。

それでは、私たちはどこへ向かっていけるのでしょう?

モモは、マイスター・ホラの導きで、「時間のみなもと」に向かい、<時間の花>に出会います。それはこのうえなく美しく、儚く、厳しさのある世界。そして、その光景はモモを勇気づけ、生命の根を見直させる力を持っていました。

「でも、あたしの行ってきたところは、いったいなんなの?」
「おまえじしんの心のなかだ。」マイスター・ホラはそう言って、モモのもしゃもしゃの髪をやさしくなでました。

連載はまだ続きます。ぜひ、『モモ』のなかに、危機とヒントを探してみてください。


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