蝶を切る
真夜中にもくもくと蝶を切った。
といっても、もちろんホンモノの蝶ではない。色画用紙に輪郭線をひいて、紙の蝶を切り出していたのである。
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娘は4ヵ月になり、昼間はだいぶ起きている時間が増えた。だがまだひとりで座ることはできないので、日々の大半は寝ている姿勢で過ごす。いわゆる「ねんね」の時期だ。
変化のない天井を見ているのはさぞ退屈だろう。なんとか少しでも楽しんでもらえないものかしら。……かといって、ほんの数ヵ月のためにわざわざ専用のメリーを買うのもなぁ。
そんなふうに思っていたところに、夫が数日間の出張。夕飯ちゃんとつくらなくていいのかわーい、ということで、ふと思い立った。
そうだ、モビールつくろう。
(そういえば「とある妊婦の脳みそ」を書いたのも夫の長期出張中だったし、どうやら夫が出張へいくと私の創作意欲は高まる傾向にあるらしい笑)
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かくして娘を寝かしつけた後、深夜ひとり、もくもくと蝶を切るにいたる。
貼り合わせて立体的なモチーフを作るため、型紙を使ってまったく同じ形を何枚も色画用紙に描き、ひたすらにハサミで切っていく。
ジャキッ、ジャキッ、ジャキッ。
そうして、もくもくと紙の蝶を切り出していると、不思議な感覚に陥った。
頭に浮かんでくるのは、普段は思い出さない、過去の記憶ばかり。
そういえば小学校のころ、◯◯ちゃんっていたなぁ。△△ちゃんや□□くんもいたなぁ。
当時は結構なかよしだったけれど、高校以降はまったく連絡もとっていない。今ごろ、どうしているのだろう。それぞれ仕事をがんばったり、こうして親になったりしているのかな。
そんなふうなところから記憶がスルスル、と引きずり出されはじめて、当時の笑いあう様子だったり、よくやっていた遊びだったり、こんなセリフを言われたなぁとか、こんなあだ名で呼ばれたなぁとか、そんなシーンがとりとめなく、ぽつぽつと脳裏に浮かんでいった。
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ジャクジャクと紙を切っているだけなのに、その動作から記憶が引っ張り出されるような感覚。
そして気づく。考えてみれば、生活の中でハサミを使うこと自体は多いけれど、「画用紙に鉛筆で描いた形を、その線に沿って切り出してゆく」なんてことはもう何年もしていない気がする、と。
小学校のころは工作が好きで日常的にやっていた、その何気ない動作。
私にとって画用紙に描いた形を切り出すという行為は、こども時代、特に小学校時代の記憶にスッとタイムスリップさせるものだったらしい。
匂いの記憶や音の記憶もあるように、行動そのものにもこうしてしっかりと記憶が宿っているのだなぁ。
もちろん、こうしてザッザッと画用紙とハサミがこすれるかすかな音だったり、指で握った画用紙の触感だったりが複合的に合わさって、記憶が呼び戻されているのだけれども。
ハサミの音だけが響く夜のリビングで、蝶を切り続けながら、ぼんやりとそんなことを思った。
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モビールは無事、なんとか形になった。
その後も夜な夜な紙を切り続け、気球のモビールやカラーセロハンのモチーフをつなげたモビールなどいくつかのモビールが完成。
しん、と静まり帰った部屋でひとり、ひたすらに紙を切るたび、やっぱり、こどものころのことを思い出した。
こどもが生まれてこれからは、きっとこども時代にやったことを追体験することも増えるだろう。
画用紙を切る機会だっていくらでもあるだろうし、他にも砂場で泥団子をつくるとか、今はまだ忘れているような、こども時代にはよくやっていたことを数え切れないほどやるようになるだろう。
そして自分がこどものころのことを思い出したり、それによって人に感謝したり、自分の子への接し方の参考にもなったりするのかもしれないな。
記憶の引き出しを次々と開けられてゆくのだ、きっと。
天井をふわふわと漂う蝶を見つめてニコニコ、にたぁ、と想像以上に笑顔をみせてくれる娘をみながら、そんなふうに思う。
人の記憶というのは、なかなかうまいこと設計されているものらしい。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。