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家電と、ていねいな暮らし

ひさしぶりに実家へ帰ったら、ダイニングテーブルの片隅にネスカフェのバリスタが導入されていた。

カップに牛乳を入れて、ピッ、とボタンを押す。

あとは数分待つだけで、ふわふわのフォームミルクがのったカフェラテができあがる。

カップに口を近づけ、くちびるにふわっと優しい泡を感じ、ごくん、とひとくち。のどに流れる、まろやかな苦味。

あ、カフェだなぁ、この感じ、と思う。

* * *

わたしの母は昔からコーヒーが好きだった。

むかしはよく、時間に余裕のある休日なんかに、豆を挽いて、ハンドドリップでコーヒーを淹れていたのを覚えている。

手挽きの小さな機械に豆を入れ、ゴーリ、ゴーリとハンドルを回す。豆の割れる手応えを感じながら、豆を挽く。こどものころから、わたしもたまに手伝っていた。

ハンドルにかかる手応えが完全に軽くなったのを確認して、挽きたての豆が入った引き出しを開ける。ふわっと、香ばしい香り。あー、いい匂い。

挽きたて豆をペーパーフィルターにセットして、先の細くなったケトルから、くーる、くーる、と「の」の字を描くようにお湯が注がれてゆく。

ぽた、ぽた、たたたた・・・とガラスポットの中に落ちてゆく、深い茶色をした液体。

部屋中に、ふんわりと満ちてゆく、コーヒーの香り。

* * *

わたしはそんなふうな所作を、いいなぁ、素敵だなぁ、と思う節があった。

いまはなんだか言葉がひとり歩きしているような感のある「ていねいな暮らし」だけれど、それが「手間をたのしむ暮らし」であると解釈するなら、いまでもそういう暮らしにあこがれはある方だと思う。

だから少し前までのわたしは、たぶん、なんでも電化製品で「便利にしすぎる」ことに、どこか抵抗みたいなものを感じていた。

……と言いつつ、実際は電気ポットやら電子レンジやら、すでに恩恵を受けまくっている。いやはやなんと中途半端なものよと自分でも思うが、なんだろう、例えばコーヒーはやっぱり時間があるなら、豆から挽く手間も楽しんで淹れたいよね、とか、その程度のささやかなものだ。

ここ数年は母がめったにハンドドリップでコーヒーを入れなくなり、手軽に飲めて楽だからとインスタントコーヒーばかりを飲むようになって、なんとなくさみしさを感じていたりもした。

だから今回、バリスタの機械が導入されているのを見たとき、第一印象はたぶん、「あ、とうとう完全に自動化されるほうを選んだかー、まあ、それもしょうがないよねぇ」という感じだったと思う。完全に否定はしないけれどなんだか寂しい、みたいな。

* * *

だが、しかし。

実際に数日間を実家で過ごして、まあわたしという人間は自分でもあきれるほど単純なもので、バリスタさまの偉大さに恐れ入った。

なんてったって、ボタンひとつ「ピッ」で、カフェさながらのふわっふわクリーミーな泡のカフェラテが飲めるのである。

コーヒーに詳しい方や舌の肥えた方なら味の優劣ははっきりわかるのだろうが、単純な食いしん坊程度のわたしには、十分すぎるクオリティ。少なくともわたしには、カフェの場所代込みで500円で出されるカフェラテと、さほど大きな差が感じられない。

コンビニすら行く必要もなく、いつでも好きなときに、ワンタッチで淹れたてのカフェラテやカプチーノが手に入る生活。カフェに行かなくても、カフェクオリティが日常的に楽しめる生活。フォームミルクのカプチーノ片手に休憩、読書、執筆がいたって普通のことになる生活。

それは予想以上に幸福度の高いものだった。

自分が何を論じてきたのかも、ぽんっと棚にあげといて、こう思う。

「ああ。家電で生活って変わるなぁ」。

* * *

家電で生活は変わる。

実はそう思ったのは今回が初めてではない。

なにせこどもが生まれて育児に奔走するうち、わたしの価値観は大幅にゆさぶられ続けている。先日の「春、風をきって」でも電動自転車について書いたけれど、「頼れるものにはいさぎよくどんどん頼ろう(そうじゃないと身が持たん!)」という方向にシフトしたのだ。

そこで、前ならちょっと抵抗もあったかもしれない食洗機も、復職を機に迷わず我が家に導入。ちまたで言う「ていねいな暮らし」、今はちょっと横に置いとこう、と考えを変えたのだ。

そしたらまあ、食洗機さまにも頭があがらない。

ひとりぶんならたいしたことのない食器洗いも、家族全員の夕食分となるとけっこうな量。1才児の食事だお風呂だとてんやわんやで1日の疲れもMAXな夕方、これを毎日毎日担うのは地味に大幅なストレスである。

それも食洗機さまがいれば、なんのその。涼しい顔をして乾燥までしてくれるのだ。はああ、ありがたや。

その時間、こどもの相手をしたり、他の家事をしたりすることができる。

なんなら、以前なら「洗い物増やしやくないから」と出すのをためらう取り皿なんかも、惜しみなく出せる。そういう意味ではむしろ、ていねいな暮らし、なのかもしれない。

* * *

そんないまでも、無理なく自然に手間をたのしみながら「ていねいな暮らし」を実践しているひとは、生きる力が備わっていて、純粋に素敵だなと思う。あこがれてしまう。

ただ最近は、手間をたのしめるかどうかは、その人の性質だけじゃなくて、ライフステージやタイミングみたいなものも大いに関わっているなぁと思うようになった。

家電が導入コストや電気代、熱エネルギーと交換してくれるのは「手間」や「体力」、そして「時間」。

自分の人生において限られた時間や体力を、今、このタイミングでは何に使いたいのか。そう考えてみると家電選びは、そのひとが暮らしのなかで何を重視したいか、ひいてはそのひととなりがあらわれるのだなぁ、と思う。

時間のないなか、疲れているなか、無理をして手間をかけると、さらに心に余裕がなくなってしまう。それでストレスを増やすくらいなら、いさぎよくパッと、頼れるものに頼ったほうが生活が幸せになるんじゃなかろうか。

限られた時間や体力のなか、食洗機に頼るからこどもと笑顔で遊べる時間と心の余裕ができたりするし、バリスタがあるから気軽にもっちり泡のカプチーノが飲めてホッとひと息つけたりする。

それはある意味わたしにとっては、暮らしのていねいさの向上ともいえるものだ。

そんなふうに、自分にとっての都合のいい「ていねいな暮らし」の解釈で、子育て中はのりきっていこうかなぁ、と思ったりしている。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。