愛しき、なんでもない日々よ
朝起きると、1歳の娘がとなりにいない。
さてこんどはどこへ転がったのかと思って寝ぼけまなこで見渡してみたら、夫の布団の足もとのほうに、娘らしき綿毛布のかたまりを見つけた。
おや、きょうはそっちへ出かけたのね。
娘の寝相は実に自由で、日々の運勢占いみたいなもんである。
あっちへころころ、こっちへころころ。
夫の表現をかりるなら、「毎日パン粉まぶしてんのかってくらい転がる」のだ。
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夫と娘よりちょっと早く起きたわたしは、朝の支度をしようと思って立ち上がる。
俯瞰してあらためて見てみると、夫の布団で、夫と娘は互いちがいに、逆方向に頭を向けてねむっていて、しかもまったく同じようなポーズをしていた。
両手をうえにあげてひじを軽く曲げ、頭のしたに少しだけいれたようなポーズ。想像しやすく言うなら、セクシーポーズ的な感じとも、まあ言えなくはない。
まあとにかくふたりとも無防備な顔をして、知らずに同じようなポーズをして、器用に狭いふとんをわけあって寝ている。娘が寝ていたはずのとなりの布団はひとりぶん、がら空きなんだけど。
そんなようすがほほえましくて、スマホで一枚だけ写真をとり、そっと部屋を出る。
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娘が生まれてからというもの、めっきり風景写真をとることが減った。
単純に、家族で景色のよいところに出かけても以前のような余裕がなくなった、というのも背景としてある。じっくりと景色と向き合うこころの余裕も、こころが動いた瞬間にカメラを構えてシャッターを切る、時間と手間の余裕も。おとなだけででかけるときのようには、まあいかない。
かわりに日々、撮るのは娘ばかりだ。
娘本人が自分の意志で判断できるようになるまで、娘の顔写真は勝手にSNSにアップしない、と考えているのでほとんどアップはしていないが、撮影枚数だけでいったらものすごいことになっている。
月に一度はそれを簡単に整理して、ピックアップした4枚でカレンダーを発注し、両家の親に送っている。それを自動でやってくれる便利なアプリサービスもいろいろとあるものだ。
今月もそろそろそのピックアップ作業をしなくちゃな、と思いながらこれを書いている。
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娘の写真をとるときの感覚は、以前風景写真を撮っていたときの気持ちとはちょっとちがう。
もちろん「最高の一枚がとれたら嬉しい」という気持ちもあるのだが、それよりも、日常を、どんなささいな瞬間でも切り取って、のこしておきたい、という気持ちのほうがつよいのだと思う。
1年と数ヵ月前に生まれた娘。いまから1年前をふりかえってみても、もうぜんぜん、表情も、動きも、リアクションも、ぜんぶちがう。
いま、いま、いまがどんどん過ぎ去ってゆくことをしっているから、忘れたくなくて、その手ざわりを、その空気感を、どうにかすこしでもリアルに残しておきたくて、シャッターを切る。
ファインダー越しに笑顔をとらえて、または無表情な自然体を、ときには怒った顔や泣き顔もぜんぶ、ひっくるめて。
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風景写真をとっていたときのように、息をひそめ、被写体と向き合ってじっ、と対峙するのも好きだ。
むしろ、ふだん気軽にそういう時間がとれなくなった分、そういう時間を捻出できたときにはその贅沢さをかみしめながらファインダーをのぞく喜びがある。至福の時間ともいえる。
一方で、何もむずかしいことは考えず、ひたすらパシャパシャと娘を連写してしまう自分もまた、楽しんでいるなぁと思う。
写真なんて古くなってしまう一方なのだとわかっているけれども、それでも、過ぎてゆく日常が愛しすぎて、その瞬間を切り取らずにはいられない。
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おやおや。
寝相の話を書いているつもりが、いつのまにか写真の話になっていた。
これはあれだな、雨だからだ。雨の日はたいてい、気づいたら思考が予想外のところにたどりついている。そして、雨のせいにする(笑)。
きょうの寝相占いは「足もとに気をつけましょう」みたいなところかしら。雨だしね。
スマホでなにげなく撮った朝の写真をながめながら、そんなことを思う。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。