考え方が違うのはべつにそれ以上でもそれ以下でもない
“わたしはわたしで、あなたはあなた。同じにする必要もないじゃない?”
以前のnote「違うけどあこがれるひと」で書いた一節だけれど、わたしの根底にあるのはこの感覚だ。
だから、「考え方が違うよね」ということばは、わたしにとって、それ以上でもそれ以下でもない。文字通り、ただ考え方が違うという事実がある「だけ」のことに過ぎないのだ。
それ自体にはまったく拒絶の意味はない。なんなら夫や親友とだって、考え方の違いは大いにある。それでもわたしはそのひとたちをとても好きだ。
つまり、「考え方の違いそのもの」は、わたしにとって別段たいしたことではない。ひとりひとり別々の個体なのだから、むしろ違ってあたりまえだと思っている。
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だれかと関係を築くとき、わたしにとっていちばん大切なのは、考え方の違いそのものではなく「違いを、違いのまま受け入れる」ひとかどうか、ということだ。もっといえば、「違いをおもしろがってくれる」ひとかどうか。
冒頭で引用したnoteに書いたエピソードでは、取引先のパートナーさんが、趣味嗜好ではまったく合わないわたしに対して、その違いを「おもしろがって」くれ、話を聞きたがってくれると書いた。
“わたしはわたしで、あなたはあなた。同じにする必要もないじゃない?”
ふたたび引用してしまうけれど、まさにこれで。
違うよね。違ったほうがおもしろいよね。そっちの考え方ではそうなるのか。へえ。そうなんだ。じゃあちょっとそれやってみせてよ。彼女は、そんなふうに言ってくれるひとだ。まちがっても、自分の考えを押し付けない。
好みや考え方の違いがあっても、双方が尊重しあっているとき、ものごとはうまく進む。
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たとえば私はチョコミントのアイスクリームが好きだけれど、わたしの友だちにも「チョコミント無理〜。歯磨き粉の味じゃん」ってひとはいる。
でも、だからといって「え、気合わないね!友だちやめましょう」とはならない。
わたしはチョコミント好きだけど、あなたは嫌いなんだね。違うね。じゃあふたりでいるときは違う味のアイスにするか、別々に注文したらいいね。それだけだ。
でもそれが、「チョコミント?無理、嫌い。っていうか、チョコミント好きってひとって◯◯ってひとが多くない? チョコミント好き〜、とか言ってるひと自体、なんか無理」と言うひとだとすると、たぶんわたしは友だちになれない。違いを、違いのまま受け入れてくれず、その背景に耳を傾けることなく否定・批判し、自分の味方以外を排除しようとするひと。
チョコミントだとちょっと弱い気がしてきたので、もうひとつ例を出そう。
わたしは食い意地がはっているので、たいていのものはおいしいおいしい!と食べる雑食系食いしん坊だが、今まで口にしたもののなかで、唯一おいしいと思えなかったものがある。シンガポールで挑戦した、ドリアンだ。
でも、「ドリアン、あれ人間が食べるものじゃないっしょ!あんなの食べるひとの気がしれない、気持ち悪い」とは思わない。
昔シェアハウスをしていたとき、シンガポール人のシェアメイトが嬉々としてドリアンを買ってきてものすごく嬉しそうに食べていたのを見ても思ったのだけれど、「ああ、育ってきたふるさとの味なんだろうなあ。臭いが強くてわたしには無理な風味だけど、よく考えたら、日本で言う納豆みたいな存在かもしれない。そう考えるとおもしろいなあ……」なんて捉えている。
“わたしはわたしで、あなたはあなた。同じにする必要もないじゃない?”
ほんとこれに尽きる。
べつに、ドリアン好きなひとはドリアンをおいしいと思って食べていたらいいし、納豆好きなひとは納豆おいしいねと食べていたらいい。無理に相手の口にドリアンを突っ込んだりしなくて、いい。
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違いを、違いのまま受け入れられず、自分と考え方の違うものを排除したり否定したりする、そういうひとは一定数いるし、わたしもこれまでの人生、どこかでそうしてしまったこともあったかもしれない。
たぶん、人間として自然な反応なのかもしれない、とも思う。
みんな、受け入れてほしいと思っている。
自分の考えを認めてほしい、いいねと言ってほしい。だから違う考え方に出会ったとき、それが拒絶という反応になってしまう。心に余裕がないと、そんなときもあるだろう。
そんなとき、チョコミントでも、ドリアンと納豆でもいいから、このnoteの話をフッと、思い出してほしい。
「ああ、べつにこのひとはドリアン好きなら、それでいっか。ドリアンの美味しさ語ってもらったら、なんかおもしろいことあるかもね(笑)」
そんな感じでちょっと笑って、肩の力が抜けたらうれしいなあ、なんて。そんなことを思う。ドリアン、食べられなくてもさ。
(おわり)
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。