皿からパクチーを取りのぞくような気づかい
“相手のためによかれと思ってしていることが、相手によっては嬉しいどころか、むしろ悲しい思いを抱かせていることもある……よなあ”。
最近ちょっとあることがあって、そんな気持ちをぷすぷすと、胸のなかでくすぶらせていた。
そんななか、ひさびさに外食ランチでもしようと入ったタイ料理屋で、出てきた料理にはパクチーがのっていなかった。
それを見た瞬間、ああこの気分どこかで、と思ったのだ。
その気づかい、嬉しいひともいれば、悲しいひともいるよなあって。
* * *
まあその料理に限っていうなら、もしかしたらそれは本場のタイでも、パクチーがのらなかったりする料理なのかもしれない。
その正確性はさておき、とりあえずパクチー好きな自分としては、料理が運ばれてきてパクチーが入ってないのを見た瞬間、ちょっぴり悲しくなってしまった。
タイ料理に、パクチーを期待して、楽しみにしてしまっていたからだ。
日本のタイ料理屋には、パクチーを売りにしているようなところもあれば、「苦手なひとも多いから」とパクチーを意図的に添えないところも多い。
パクチー好きとしては、パクチーがないことで、ちょっぴり悲しくなったりしてしまう。
でも、そこには相手の気づかいや優しさがあるとわかっているから、怒りという感情にはならない。ただ静かに、ちょっぴり悲しくなる。相手の優しさを攻撃したくなくて、口をつぐんでしまう。
一般的には苦手なひとも多いからね、取り除いておきましたよ。
そういう、多くの日本人向けの気づかい。苦手なひとにとっては、一度ごはんや野菜に香りがつくだけでも耐えられないかもしれないから、たしかにそれは、相手によっては素直に喜ばれる、優しさなんだと思う。
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あなたが「それ嫌でしょう、大変でしょう」と相手からとりあげたものは、一般的には嫌がられたり大変だとされるものでも、もしかしたら相手によっては、手放したくない大切なものだったかもしれない。
同じ相手でも、そのときの状況や、体調やタイミングによって、前は嫌だと言っていたものでも、そのときは手放したくないものに変わっているかもしれない。ある日突然、嫌いだったパクチーが好きになったりするみたいに。
もしかしたら、その日はすごく楽しみにしていたものだったかもしれない。特別何か言わなくても、期待すらしていたものかもしれない。
でも「それ苦手だよね、大変だよね、食べてあげるよ」というあなたの言動が、気づかいや優しさからくるものだとわかっているから、「いや、実は今パクチー大好きで……!」って言い出せないのかもしれない。
いや、ほんとうは少し言ってみたのかもしれない。「最近はさ、パクチー食べるのもおいしいなと思ってて、だから大丈夫〜」って。軽く。
でもあなたはそれが、相手の遠慮からくる言動だと思っているから「遠慮しないで」「もっと頼ってよ」と押し切るかもしれない。
その圧を感じとった相手が「……じゃあ、お言葉に甘えるね」といったのは、そうしたほうがあなたが喜ぶ、と思った結果なのかもしれない。
* * *
……すべては、ブーメランだ。
自分も無意識に、そうしてしまっていることが、きっとあるのだと思う。でも自分では、いいことをした気分になっているかもしれない。相手がもやもやしたり、悲しんだりしていることに、気づいていないだけかもしれない。
わたしは仙人ではなくて凡人だから、いくらこういう文章を書いていたって、これからもそういうことを、自分では気づかずにしてしまうかもしれない。きっとみんな多かれ少なかれ、そうなんだろうなあ。だからなあ、だれも、べつに悪くはないんだよなあ……。
優しさを、優しさとしてそのまま受け取れるような人間になりたかった。いつからこんなにひねくれてしまったのか。つくづく自分はめんどうくさい。
パクチーのないタイ料理を食べながら、ぐるぐるとそんなことを考えていた。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。