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娘の歯医者と、まとまらない思いと。

朝、1歳の娘を歯医者へ連れていった。

娘の歯はエナメル質が弱めらしく、定期検診をかねて2、3ヵ月に一度クリーニングしてもらっているのだ。

治療室へ通されたとたん、前回の記憶がよみがえったのか、座る前から「うぁぁ!」と泣き出す娘。

そんな娘を「はいはーい、だいじょうぶだよ〜」とむんずと抱え、腰かけたわたしの膝にのせる。そのまま椅子がウィーンと倒されて、親子で重なったまま、横になってゆく。娘は「わが危機ここにあり!」とばかりに、全力で泣き叫びつづける。あばれる娘を、わたしは両手でなんとか押さえつける。

子育て経験もある女医さんに女性スタッフなので、対応は慣れたもの。やさしく明るく声をかけながら、しかし容赦なくクリーニングはスタート。

「んぎゃああああああ!ぎゃあああ!ぎゃああああ!」

どうしたらこれほどずっと泣き叫びつづけることができるのか、もういい加減疲れたでしょう。そう思うほどに娘はひたすら泣き叫ぶ。そして全身に力を入れてあばれる。

ただでさえ体格がよく、力も強いねと言われる娘。そして頭が大きいので、娘がぐんっ、ぐんっ、と足を突っ張ってあばれると、そのたびにわたしはあごをゴンッ、ゴンッ、と頭突きされる。けっこう痛い。

「だーいじょうぶ〜(ゴンッ)。きれいきれいしてもらうだけだよ〜(ゴンッゴンッ!)」。こちらは声かけをしながら、あごの衝撃に耐えながら、娘のがんばりを応援するほかない。

無事にクリーニングを終え、歯医者さんとスタッフさんに「がんばったね」「えらかったね」ととびきりの笑顔でねぎらってもらった娘。かなりいぶかしげな表情でその二人を見つめている。

このひとたちは敵なのか味方なのか、はかりかねているのかもしれない。

こども歯科をうたっているその歯科医院、治療後には小さなガチャポンを回すコインをくれて、そこから出てくるおもちゃをひとつ、もらえることになっている。

コインをもらい、娘の手にもたせて、わたしの手を添えてコイン投入口に入れる。娘の手をガチャポンのつまみに移動して、一緒に回す。おもちゃがひとつ、コロンと出てきた。

「よかったね〜。いいのもらったねえ」

娘は、笑顔でそんなことばをかけるわたしと、手に入れたガチャポンを見つめながら、せいぜい15分ほどの中に起きた感情の激動に、狐につままれたような顔をしていた。

* * *

きのう地震が起きて大きな被害が出ていることを知ってから、いろいろな思いが頭のなかに浮かんでは、まとまらないままに消えていっている。

こういうとき、SNSにどんなことを書いたらいいのかといつもモヤモヤしてしまう。

うまく伝わらないかもしれないが、わたし個人としては、こういうときに特別なことを書きたくない、という思いがどこかにあるのだと思う。

なんといったらいいのだろう。自分でもはっきりとわからないし、誤解を招く言い方なのかもしれないのだけれど、災害が起きても、起きなくても、いつも、誰かが、どこかで、わたしなんかの想像も及ばないような、とても大変な思いをしている、と思っている。

以前、別の大きな災害が日本であったとき、海外のNGOに関する活動をしている知人が「◯◯(外国名)では常に、何千人というひとたちが家も壊されたまま、食料不足のなかで暮らしていることにも、これくらいの思いを馳せて支援をしてもらえたらいいなと思ってしまう」みたいなことをつぶやくように、あるSNSに書いていて、ああ、そういう側面もたしかにあるのだよな、と思ったのだ。

普段わたしたちは、そういうひとたちの存在を忘れて、毎日飲んだり食べたりして楽しく暮らしているじゃないか。そこに罪悪感なんて感じずに。

いつも誰かがどこかで、自分の想像を超えて壮絶な思いをしている。戦時下の国ならばなおさら。

でも一方で、「近い」ひとたちを守りたい、と思うのは人間の自然な感情だよなあ、とも思うのだ。遠く離れた外国より、同じ国の人を。赤の他人より、家族を守りたいと思うのは、ごくごく自然な感情だと。

そうして思考をめぐらせているうちに、ああ命の重さってなんだっけとか、そこに優劣なんてあるんだろうかとか、どんどんまとまらない方向に広がっていってしまう。

結局宙ぶらりんのまま、わたしも一番近いひとたちとの日常をいつもどおり楽しもう、と思うところにいたる。

そんな思いを含んだ、娘の歯医者さん日記。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。