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まぐろキューブのキャンディ包み #夜更けのおつまみ

食卓の隅に置かれた電気ポットに父が手を伸ばし、焼酎を入れたグラスにとぽぽぽ、とお湯を注ぐ。

むわりと立ち込める芋焼酎の匂い。

こどものころのわたしにとって、それはちっともいい香りではなかった。

中学生くらい、いわゆる”年頃の娘”になると、さらにお酒への嫌悪感が増してしまう。酔っ払った父が、ろれつのまわらぬ口調で何度も同じ話を繰り返すからだ。そうなると知っているから、お湯を注いでむわっ、と匂うその瞬間、もういやだなあと思う。ああ、酒臭い。あからさまに顔をしかめた。

そんなふうに、こどものころのわたしと“酒”の出会いは、決していいものではなかった。

ただ悔しいことにというか、幸運なことにというか、そんな多感な時期を迎えるよりも前に、わたしは酒飲みの父のおこぼれにあずかって楽しんでいたことがある。それが、おつまみ。

記憶にあるのは小学生ごろからだが、とかくわたしは幼いころから、酒飲みが好きだと言われるような食べものが好きだった。

軽く炙ったエイヒレや鮭とば、ホタテの貝柱に貝ヒモ、ビーフジャーキー、ホタルイカ、スルメ、さきいか、いかの塩辛……。

もうちょっと攻めたところでは、いかまるごと一杯をさばいたときに残る、はらわたそのもの。あれに粗塩を振って、オーブントースターでほどよく焼いたのを、箸ですくってちびちびとなめるのが大好きだった。

「珍味よ〜、珍味。あんた今からそんなもの好きなんて、ほんと変わってるわねぇ。将来、飲ん兵衛になるね!」

母はよくそんなふうにわたしをからかった。

当時のわたしは「ちんみ」の意味も「のんべえ」の意味もよくわかっていなかった。とりあえず、おつまみをうまいうまいと食べるたびに母にそう言われるものだから、わたしはよっぽど他の子より「ちんみ」とやらが好きで、「のんべえ」とやらの素質があるらしいと、こども心にぼんやり思っていた。

「飲ん兵衛になるね!」。その母の声を思い出すと、つられて実にさまざまなおつまみの記憶が引きずり出される。

いま思い出したのはあれだ。まぐろの佃煮みたいなものをギュッと固めて、四角いキューブみたいにしたあれ。ひとつひとつがキャンディみたいな包み紙で包まれて、袋にいっぱい入っているやつ。あ、知ってると思った方は、わたしと同世代かそれ以上に違いない。

しょっぱくて、そんなにたくさん食べられるものでもないのだけれど、あのきらきらした包み紙のファンシーさとあいまって、小学生のわたしはあのまぐろキューブが気に入った。

思い返していて、ああ懐かしいなあと思う。そういえばおとなになってお酒を飲むようになってからは、むしろ一度もお目にかかっていない。

思い立ってスーパーのおつまみコーナーで探してみたけれど、とりあえず近隣の店舗では見つからなかった。うーん、わたしの記憶違いだろうか。古い記憶なので、不安になって夫に聞いてみる。

私:「あのさ。まぐろの佃煮みたいなのをギュッとキューブにしたような、おつまみってなかった……?」

夫:「ああー。あった、あった。金と銀の包み紙のやつでしょ?」

私:「そう!  金と銀の!」

思いのほか、さらに鮮明な情報を付け加えて返されて、わたしは喜ぶ。やっぱり幻ではなかった。でも、最近はやっぱり見かけないねえ、と話す。

特別思い入れがあるわけでもなかったのに、いざ見かけないと気づくともう一度食べたくなるの、なんでなんだろうね。

かつてあれだけ「酒臭い」と嫌っていた芋焼酎の香りを、いま、わたしは「いい香り」と言えるようになったと伝えたら、父はなんというだろう。

そうだよいい香りだよ、俺は何十年も前から知ってたよ。そう、苦笑いしながら口を尖らせて言うだろうか。

わたしたちが家を巣立ってからの父は、焼酎も飲むけれど、どちらかというと母と一緒にワインや発泡酒を楽しむようになっていた。昨年までは夫婦で晩酌する話を聞いていたけれど、最近は健康上の理由で、父も母もそろってお酒をやめたらしい。

あれほどお酒のイメージが強かった父が、酒をやめる。あれほど酒を毛嫌いしていたわたしは、いま焼酎がうまい。どうしたって、月日の流れを感じずにはいられない。

あのまぐろキューブ、どんな味だったっけかなぁ……。

芋焼酎のお湯割りをなめながら、わたしは幼いころの記憶に思いを馳せる。

ふわりと立ちのぼる酒の香りが、わたしをどこまでもあの頃へ連れてゆく。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。