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「7つの習慣」を読んで、手に入れた自由

572ページに渡る名著を読み終えた時
私の中に強烈に残ったことは

刺激と反応の間には選択の自由がある

この原則だった

第一の習慣
「主体的である」

学校や会社などの集団の中では
それなりに主体性を発揮して生きてきた
そのため自分には特に必要のないパートかなと
さらっと読もうとしたらとんでもない

最も自分にとって必要な内容となった

ここでいう主体性は
自らにおいて発揮する主体性を意味している

人間と動物の違いは「自覚」なのだという

人間だけは自分の感情、気分、思考を切り離して考えることができる

そして刺激と反応の間にはスペースがあることを認識することで
それが自分に与える影響を選び取ることができる

不倫されて憎い
馬鹿にされてみじめだ
病気になって辛い
職を失って苦しい

生きていれば大小様々な出来事に見舞われる
ただ自分の身に起きたことと
それに対する反応の間にはスペースがある

物事が原因となって自分の気分や行動が直接左右されるのではない
ある出来事に対し、自分がその気分、行動をとることを選択、あるいは許可している

そのことに自覚的になれば
刺激と反応の間にスペースがあることを知っていれば
そこに選択の自由があることにも気づける

このことを頭でわかっていても
現実は難しい
油断しているとすぐに反応的な態度をとってしまう

ただそれでも
今自分がとっている態度は
自分がそうすることを選択していると
せめて自覚できるようになれば
それが自分の人生を主体的に生きることの第一歩になるだろう

今まさに自分を1年以上苦しめている出来事がある
ただそれは正確には
1年以上自分がそれについて苦しむことを選択していたのだ

その出来事自体が私を苦しめているのではない

そうわかった途端
私にその出来事に対する様々な負の感情、態度を手放す選択肢があらわれた

頭と心に絡みついているようなこの気持ちは
その実私がこの手で握りしめていただけだったのだ

だとすれば私はこれを手放すことができる
目の前が開かれたような気分だった




この考え方は
アドラー心理学における目的論と通じる

ある出来事に起因して
結果としての行動や感情があるとする原因論に対し

目的論は
人は何か目的をもって行動しているのであり
原因となり得る過去の出来事については
目的のために意味付けして利用しているにすぎないという考え方だ

その目的を無意識に選択するのか
意識的に選択して
人生に効果的な目的に置き換えるのか

主体的に目的を選択し直すことで
人は今この瞬間に幸福になれるとアドラーは説いている

コヴィー氏の語る
効果的な人生を歩むための主体性も然りだ


この話を読んで
学生時代の授業を思い出した

キリスト教系の高校だったため
聖書の授業があり
その中で印象的だったのが
あの有名な言葉
「汝、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」
についての解釈の回

それまで私はこの言葉を
何か嫌なことをされてもやり返さずに許そう
という宗教にありがちなお人好し理想論ぐらいにとおもっていたが
当時の教師の解釈はもっと攻めたものだった

右の頬を打たれた時点では
力関係は打った加害者、打たれた被害者になる
ところが、ここで左の頬を自ら差し出すことで
「打たれる側」から「打たせる側」にまわる
つまり受動的に打たれるのではなく
能動的に打たせることを選択することで
主体性を取り戻せるのだ

肉体的、物理的な主導権を握られたとしても
人間が持つ根源的な自由
自らの主体性を手放してはならないと
そう解釈すると
7つの習慣と通じる部分がある


7つの習慣は私的成功のための第一〜第三の習慣、公的成功のための第四〜第六の習慣、そしてそれらを研ぎ澄まし、向上し続けるための第七の習慣から成る

第一の習慣 主体的である
第二の習慣 終わりを思い描くことから始める
第三の習慣 最優先事項を優先する

第四の習慣 Win-Winを考える
第五の習慣 まず理解に徹し、そして理解される
第六の習慣 シナジーを創り出す

第七の習慣 刃を研ぐ

一通り読んでみたものの
真に身につけるために
折に触れてまた何度も読み返したい

今回はまず一歩目として
自分の人生の舵を握り直すこと
主体的にあることにフォーカスすることに集中する

7つの習慣は相互に関係し合っている
他の習慣のことも頭の片隅に置きつつ
第一の習慣を磨き上げることで
他の習慣も効果的に習得することができるだろう

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