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名もなき人がnoteを書く意味

先日、アメリカでは各分野の史料をどういう形で保存しているかというウェビナーを視聴した。
もちろん私は門外漢なので、へえ〜!すごっ!だよねぇ〜とただ驚いて見ていた。

人の作ったもの、例えば建築の史料を残す場合、スケッチ、図面、写真、模型、論文などいろいろな形がある。
建築物が現存するうちはいいけれど、建て替えられれば記憶の中だけのものになることだってある。

また、史料と言ってもピンからキリまであって重要度も様々、ひと口に保存と言っても悩ましいものだとわかった。

しかしその時代を、その人の作ったものを、残す、保存することはとても重要なことだと感じた。


ウェビナーを見ながら、少し別の方向から考えたことがある。

私がエッセイやnoteを書くのは、何のためだろう…?と。

もちろん、まず一番には今の自分のためだ。
呼吸するように、書いていたい思いがある。

そして読んでくださる人に笑ってもらったり、共感してもらえると嬉しいから。
日記もいいんだけれど、やはり私は読んでくださる人がいるエッセイを書きたい。

こういうことは突き詰めて考えない方がいいのかもしれない。
「だってnoteは楽しいんだもん」で充分じゃないか。


ユーミンが「自分の作った歌が、詠み人知らずになるのが夢」だと言っていた。
あれだけ多くの曲を作り、多くの人から共感された人がそう言うって、カッコいいと思った。

じゃあ私は?

歌も小説も一流の書き手はわんさといて、それでも自分が書いているのは…。

それは、もしかしてなんだけど、
いつか誰かが読んでくれるかもしれない、そんなロマンがあるからじゃないかな。

西暦2522年。
500年前の日本で、パートで働く中年女の気持ちを書いたものがある。
読む人が、どんな感想を持つか想像してみる。

名もなき人が書いた平凡な生活が、500年後には「信じられなーい」ってものに変わっているのだ。

上手く書けてなくてもいい。
500年後の人が読み下してくれるから。

「西友で98円だったヤマザキのクリームパンが、最近128円に値上がりしちゃって、今日は買うのやめた」そんな一文だけでもすごい史料になる!
ま、ならないかもしれんけど、書いておけば可能性はある。
※例文は事実とは異なります


文字を書ける人が限られていた時代と、誰でも世界に発信できる現代とは、比較はできない。

でも、書いてあれば誰かが読むかもしれない。
今楽しんで書いてるものが、庶民の生活を知るための史料になるなんて、未来の人が喜んでくれるなんて、嬉しいじゃない。

でも、そんな目的を持って書いてるわけじゃなくて、やっぱり楽しいから書いているんだよね。
結局はそれなんだ。

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