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晴旅雨筆(エッセイ)

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これまでの人生で書き散らしてきたノートの切れ端をちぎれ絵のように張り付けたエッセイ。本を読み、山に登り、酒を呑み、街を歩く。
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#大学院

面接では《What is your ultimate goal?》と尋ねていた (試験の時間)

新入社員が公務員への転職を公言し、公務員試験勉強に精を出していた、という記事を読みました。 おそらく、「個人」のキャラにも問題があり、同僚として「なんだこいつ」的感情を抱くのは理解できます。 ただ一般論で言えば、仕事さえしてくれれば(そうでなければ昇給・ボーナスなどでそれなりのフィードバックをすればいい)本人の人生計画に沿ってやればいい、とジジイは思ってしまいました ── ライバル会社に行くわけではないし。 こんな風に思うのは、私が少し特殊な企業にいたからかもしれません。

《感謝》の顕し方(エッセイ)

高校3年の時、大学進学後の奨学金給付生募集があった。 地元の企業からの「給付」、つまり返さなくて良いお金で、しかも、その会社に就職しなくてはいけないなどの「義務」も一切無かった。 金額はそれほど多くなかったが、それでも安アパートの家賃ぐらいに相当する額だった。 募集枠は3人で、そこに、同じ高校からボクを含む男子3人と女子1人が応募した。 女の子は、その学年で常に数学の成績がトップであり、最難関医学部志望の天才!だった。 面接試験の結果、彼女ひとりが落とされ、文系2人、理系1

母を語れば [2/3] (エッセイ)

母の日に書いた忘備録(↓)への追加記事です。 高校受験の時、特進クラスを新設する高校からのオファーに対して、 「自分のことは自分で決めなさい」 と母から判断を一任され、 《1万円とリスクを取るか、否か》 で悩んだ話を書きました。 この、 《自分のことは自分で決める》 に加え、それに付随した、 《判断結果により節約できた金は、判断を行った人間が成果として受け取る》 は、なんとなく、ではありますが、母がらみで《暗黙ルール化》されたようなところがありました。 2歳上の姉は、

「本社・工場」ってどこ?──大きく見せる (エッセイ)

学生結婚前後の話を、断片的に書いたことがあります。 ➀ 独身時代に愛用していた《キリンベッド》を、結婚で手放さねばならなかったこと、それに、 ➁ 大学院研究室の教授に頼まれて、息子さんに《将棋とキャッチボールの家庭教師》をしていたこと。 その時代に、もうひとり、書き留めるべき人物がいます。 妻は結婚前の1年間、北九州で教師をしていました。学年末の3月31日に入籍し、4月1日に結婚することになったため、退職し、東京で仕事を探すことになりました。 なお、入籍が結婚の前日なのは

先生に「先生」と呼ばれた学生 (エッセイ)

2年前の今月、工学部(卒論研究)と大学院(修士論文)で計3年間、担当教授としてお世話になった恩師が亡くなった。 先生はクリスチャンで、真面目で穏やかな人だった。学科の他の教授のように、権力争いをしたり、高圧的だったりすることが皆無だった。 修士課程進学と同時に結婚した僕は、その専攻でただひとりの既婚学生だった。 いわゆる披露宴は行わなかったが、担当教授からは、 「おめでとう。これ、少ないけれど」 とお祝いをいただいた。 そして、 「同じ松戸市内だからね。……別の面で《応