分娩台で朝食を食べた話

私はその日、予定日より2週間早く産気づいた。その一週前に、もう生まれますかね?いやまだまだよぉ、などという会話を先生としたばかりだった。胎児は小さめと言われ続けており、最後ひと月で大きく育てるぞ、と思っていた矢先のこと。

午前3時半過ぎだと思う。眠っていた。違和感に目が覚める。トイレに立つと、破水だろうか、水っぽさの中に鮮血。病院に電話し、うちを出る。痛みは弱く、波が起こり始める予兆だけが漂う。外はまだ朝の手前。心地よい風が柔らかく吹いていて、月あかりの下に、草がそよぐのが見えた。あまりにも穏やかな夜で、赤ん坊が生まれて来るのに何の不安も危険もない世界のように思えた。

十分ほどで無事病院に到着。少しの緊張をもって夜の通用口をくぐる。波が立ち上がり、うねるのを感じ始める。四時半。守衛さんに連れられてエレベーターに乗り込む。通された部屋で、横になり目を閉じて波を数えると、瞬く間にのまれていく。踏ん張るように時間を確かめる。時計の針が、今を刻むことがとても不思議に思われる。

促されて分娩室に移動する。さすがにまだ生まれないでしょう、と言う私に、助産師さんがてきぱきと指示を出す。右手の壁に時計を見とめ、秒針を追う。数えることを諦めて、ただ波を待ちとらえることだけに集中し始める。所用で助産師さんが部屋を出る。ひとりきり、全体的に緑の部屋、さすがに少し心細くなる。

基本的に助産師さんと私だけがいて、私のつぶやき(もしくはうめき)以外何の音もなかった部屋に先生がやってきた。やっと手術が終わったの、などとつぶやき、椅子に掛ける。もうすぐと思って待つと結構長いわね、とまたつぶやく。…ドライだ。

朝六時、いっきに部屋が活気づく。どこからやってきたのか増殖した看護師さんの、多重の声が耳に届く。その声に従って、体を動かし息を継ぐ。

痛みが逃げて迷う耳に、もう少しなんだけど、と先生の声がする。それならば今もう楽になりたい気持ちがせり上がる。力を入れると、赤ん坊はつるりと滑り出たようだった。ほっと息をつく。赤ん坊を目の前に見せてもらう。指を添わすと血がついた。とても小さい女の子だった。産声。

赤ん坊は処置のため、体重測定後すぐに退場してしまった。残されたのは朽ちたゴムのような私の体。胎盤がなかなか出てこないと助産師さんと先生が頑張っている。あ、切れた…とつぶやくので、高揚感は瞬時に去って、恐怖心がむくむくと起き上がる。そして傷んだ体を引き受けるのは自分なのだと思い出す。痛いのは嫌だ…陣痛より痛いものはないのかもしれないが、よぎる言葉はそれだけだった。

裂けた傷を先生がひと針ひと針縫ってくれるが、それがちくちく地味にイタイ。つい声が漏れてしまう。先生は無反応。言い訳がましく、陣痛よりは痛くないのだけれど、などと言ってみるが、先生は無言だった。ハイおしまい、と言われるまでにいったい何針縫ったのか。抜糸するんですよね…と訊いてしまうが、そうですね、と軽くあしらわれる。そうこうしているうちに、綺麗にしてもらった赤ん坊が、タオル地のぶかぶかしている産着に着られるようにして登場した。抱かせてもらう。小さい、としか言葉が出ない。小さい。小さい。動いている。とても軽いのに、命の重みがある。ふにゅふにゅとしてほかほかとして息をしている。小さな小さな手、指を握らせるとぎゅっとつかんでくる、新しい命。

助産師さんと私と、彼女だけが静かな分娩室にいた。蛍光灯の下で、外はもう朝が光っているはずの時間に。扉の向こうはきっと忙しない月曜日が始まっている。とても静かに、息をひそめるようにして誕生を喜んだ。

そして分娩台の上で朝食をとった。牛乳がおいしかった。お腹がすいていることに気が付いて、何だかとても不思議だった。サンドイッチを口に運び、ふと指を見ると、赤ん坊に触れたときについた血がまだついたままだった。生まれたんだなあ、とまたしみじみ思った。数時間前の私のからだと、今のからだは、続いているのに違うのだ。そして昨日はいなかったひとがひとり、今日、新しく呼吸を始めている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?