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明日を行く

花の名前は知らないが、それはとても小さく、そこにただ在ることに意味を持つように見えた。

私達が出会った20歳の夏。彼女を初めて見た時に感じた言葉を今になって思い出した。

私達はとても若く、躍動する心と身体に溺れるまま、愚かすぎるほど幼かった。ただ、隙間を撃つように襲う不安を恐れ、時々私は無口になった。

私達の未来に影を落とすその不安こそが、私が私で在る理由なのを彼女は知っていたからこそ、無口になった私に寄り添い、ただ静かに闇の帳がせり上がっていくのをじっと待つようにその体温を私に預けた。

私の大学卒業が近づいてきた頃に、私達は将来の事を話し合った。私は内定はもらっていたが、院生として残り、音楽活動と雑文のバイトを続けるか悩んでいた。しかし、彼女との未来を考えた場合、生活の糧を選ぶしか選択肢がないと自分勝手に思い込んでいた。

そんな私に彼女は好きな事をしてほしいと言ってくれたが、言われれば言われるほど、彼女との未来が私を追い詰めた。私達が決め、私達が幸せであればそれで良いとは言えなかった事情もあった。それぞれの家族の考えや、世間体という得体のしれない怪物が私達の家族を侵食し、その原因となりうる私が矛先として注視され、徐々に選択肢がない状況になっていくのがわかった。

結局私は、何事も決めずに流される事を選択し、就職をした。

そんな私をあの時、彼女はどんなふうに思ったんだろうか。

就職先での私は、何かタガが外れたかのような虚栄心の塊となり、傲慢で新人らしからぬ尊大な態度を取り続けた。ただ結果だけが欲しかったのだ。大きなプロジェクトに食い込み、実力を見せれば自ずと皆がこちらを振り向くものと思い込んでいた。尊敬されたかったのだろう。失った自信を取り戻せれば何某かの人になれると勘違いしていたのだろう。結果、ただの新人以下とレッテルを貼られ、私を理解できない愚者とは付き合いきれないと入社半年で離職した。

今思えば、当然な扱いであり、言い訳もできぬほど私が愚者であっただけなのだが、当時の私は離職後、日雇いと雑文書きの仕事をしながら音楽活動に没頭していった。

そして彼女の希望で私達は小さな文化アパートで一緒に暮らし始めた。生活費の8割は彼女の収入から賄った。私といえば酒と音楽を浴びるように消費し続け、毎晩外に出掛けた。すれ違いの日々の中でも、台所に手紙と食事を残し出社する彼女を見送りもせず、くすぶる悪意が本当のクズに宿るように私の中で育っていった。

そんなある日、彼女から海がみたいと言われ、長者ヶ崎海岸まで私達は出掛けた。夕暮れの景色が私達を覆い尽くすまで、私達はずっと話続けた。出会った頃の話や二人で行った旅行の話を。楽しかった過去の思い出の話ばかりを。そんな時、彼女から、結婚しよう、と言われた。いつか私から言うつもりのまま、鍵をかけていた言葉が。彼女から。

私は、オレでいいのか?と情けない言葉を吐き出した。彼女は全てを見抜いていたかのように、頷いてくれた。それからの私は相変わらず日雇いと雑文書きと音楽活動を続けてはいたが、何者にもなれなくていい、と気づいた。一端の人、一廉の人にならなければ、との思いは虚栄心からきたものである事を認め、何者にもなれぬし、ならぬ人でありたいと考えるようになった。

そして私達は未来を見ることを拒み、今ある事を1つずつ進めていくことに決めたが、彼女の両親がそれを許してはくれなかった。それはひとえに私の生業に関する事が原因ではあった。子を持つ親として至極真っ当な意見であり、私は何一つ反論できなかった。また、私の出自に対してもおもうところがあり、それも反対の原因であった。

彼女は両親の反対など気にしない、と言ってはいたが、傍目からわかるほど苦しんでいた。そんな彼女を見るのが苦しく、また、彼女を苦しませる原因である私自身にも嫌気がさし、何度も何度も話し合いをした結果、私達は別れた。

彼女が私達の文化アパートから出ていく日、私は引っ越しの手伝いをしながら彼女に、いつでも逢えるから、と笑顔で空っぽの言葉を言った。彼女も、そうね、また逢えるよね、と空っぽの言葉を言った。私達は空っぽの言葉が空に伸びていくのを見つめ、そして別れた。

その後、彼女は私の知らない誰かと結婚をしたが、数年後には離婚をし、それからは誰とも結婚をせず一人で暮らしていた。

彼女と別れてからのち、私も実家の都合で関西に戻り、色んな仕事をしながらも、誰かと付き合ったり別れたりを繰り返した。

40歳を超えた頃から、徐々に仕事で東京に行く機会が増えて行き、共通の友人の勧めもあり、なんとなくまた、彼女と会う事が何回か会った。彼女は20代の頃と変わらず、相変わらず美しかった。私達は過去の話はせず、近況報告のような当たり障りのない会話を繰り返し話した。

別れ際に彼女は、私、まだ彼女になれる資格あるかな、と笑いながら言った。冗談でも言っちゃだめだ、本気にするから、と私も笑いながら答えた。お互いにこれ以上話すと思い出が私達を呑み込む事がわかっているから、不自然なほど笑いながら、別れた。

それが彼女との最後だった。

オレはずっと一人ぼっちでいたせいか、人と話すと自分の事ばかり話してしまう、と言うと、彼女は、あなた、ゴッホと同じじゃん、と言って笑ってたっけ。

どうしたって避けられないお別れが訪れた時、寂しさと孤独が何食わぬ顔して隣に座ってた。

ピンク色とオレンジ色が混じったような夕焼けが訪れるたびに、あの長者ヶ崎海岸を私は思い出すだろう。

遠くない未来、私がそっちに行ったら、あなたが知らない私の話を嫌になるぐらい話してあげる。

その日がくるまで私はただただ、明日を行く。
ただ、明日を行く。
明日を行く。


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