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すべてと無とはじまりと終わりについての話(8)終

 音楽を聞きながら、ふと時計を見ると午後1時近くになっていた。ぼくは思いついて、ユカリからもらった時計を初めて出した、リューズを巻くと、針は少しづつ動き出した。ぼくは午後1時ちょうどに針を合わせ、日にちを合わせた。午後1時近くなると、時報を聞きながら、午後1時ちょうどに時計を合わせ、腕にまいた。ステンレス・スティールのベルトは買ったときに調整してもらっていた。そして窓から雲に隠れた薄い太陽の光を見た。12月22日の正午を過ぎ、13時になった太陽の光だ。 
正確に言えばグレゴリオ暦は太陽暦とは少し違う。グレゴリオ暦の一年は365.2425日、太陽暦、つまり実際に地球が太陽の周りを一周するのは365.24219日だ、少し簡略化したのだ、調整しやすいように、4年に一度一日が増え、100年に一度増えない年が来る。そして400年に一度やはり増える年が来る。それでもすこし誤差がでる。確か3000年ぐらい経つと1日増えるはずだと記憶していた。それをどうするのかは知らない。多分増やすんだろう。その他に出来ることはないから。その日はどういう日になるんだろうか? その日は来るんだろうか? 

太陽のことを考えると少し気分が落ち着いた。ぼくの左腕でゼンマイが振動し秒針を動かして時を刻んでいた。 
ただこうなっただけだ。一日は今も動いているし、時間は誰も待たない。地球が止まったとしても、時間は動き続けるんだ。それがもう時間ですらなかったとしても、ぼくの腕時計はもう意味を成さない1秒を刻むだろう。 

ユカリがやってきた。「ほんとだ、すこし疲れた顔をしている。」と彼女は言った。 
ぼくはコーヒーを入れた。「確かに疲れた。ああいう場所はいくものじゃない。でもまあ二人とも元気そうだった。それは良かった。」ぼくは言った。 

「あんたが参っているのはそれだけじゃないでしょう。」コーヒーを受け取り彼女は言った。「自分を責めている。そうよね。」 
「そうだね。おれは自分を責めないわけにはいかない、どうしておれだけが生き残ったのか、彼らが守ってくれたからだ。気持ちは嬉しい。でもそれは公正さを欠いているような気がする。」ぼくは搾り出すように答えた。 
「あんたが責任を感じることも、自分を責める必要も全くない。」と彼女は言った。「綿谷くんが逮捕されたのは実際に取引を目撃され、現行犯だったから、そして加藤くんの名前が出たのは、実際に頻繁に一緒にやっていたから。でもあんたはそうじゃない。実際に捜査もちゃんとされたんでしょう、でもあんたについては証拠不十分だった。だから逮捕されなかった。」「そうでしょう?」 
「そうだ。」「その通りだ。」そのとおりなんだ。でも。 
「あんたが気にする必要はない。それは、友だちが二人も逮捕されたんだもの。落ち込むのは分かる。でもそれはなるべくしてなったことなのよ。あなたには関係ない。」とユカリは励ますように言った。 
「その通りなんだ、でも今はまだそういう気になれない。あいつらが出てきて話ができたら落ち着くと思う。」とぼくは言った。ユカリは頷いた。「あんたは優しすぎるのよ。」ユカリは言った。 
「違う。おれは優しくなんかない。」ぼくは言った。ユカリは少し驚いたように黙っていた。そして言った。「そうだね。それは優しさじゃない。」「気にし過ぎなだけ。」 

時計、似合っているよ。とユカリは言った。ぼくは時計を見た。時計は勤勉に動いていた。午後3時13分。 

ほんとうにそうなのだろうか。今はもう夜じゃないのだろうか。星は見えないのだろうか。それは今見えるべきなのに。 

 クリスマスは静かに終わった。もちろん普通に授業はあったし、街に出ても人がいっぱいいるだけだからと学校が終わったあとにユカリと待ち合わせて、一緒に駅前まで行き、ご飯を食べて、酒を飲み、その後うちに帰ってまた酒を飲み、セックスをして一緒に眠っただけだ。ぼくは腕時計をつけ、ユカリはマフラーを巻いていた。マフラーはよく似合っていた、その深い赤色は、彼女のまだ幾分幼さを残している可愛らしい顔によく映えていた。成熟した女性であればそれはそれで完結したように映るのだろう。でもその曖昧さは、今にしか起こらないものだ、花が咲き始める直前の美しさのように。セックスをする前に、彼女はぼくの腕時計を外した。 

25日彼女は早く起き一回帰って、学校に行くといった。ぼくは特に重要な授業もなかったし、アルバイトがあったから、その後もずっと眠っていた。もう一人のバイトの奴には彼女がいなかったから、2日代わりに出てもらっていた、「後俺は一週間出ないからな。」と彼は言った。 

エリちゃんに一度電話した。大丈夫? と。「大丈夫よ。」「もう慣れたわ。でももう少しで出てこれるみたい、保釈金の額も決まって、それを払えば、一応出てこれる。もちろんそのあと裁判とかもあるんでしょうけど。」 

年末になり、年が開け、ぼくは実家に帰り、すぐ戻ってきた。ぼくはそこに居たくなくてここにきたのだ。義務的に少し戻って、アルバイトやらなにやら用事があると理由をつけて帰ってきた。 

1月の半ば、揃って彼らが保釈され、戻ってきた。ぼく達は集まって話をし、何が食いたい? 何でも食わせてやるよ。という話をして、結局焼肉が食いたい。という話になった。それで近くのちょっと高級な焼肉屋に行った。綿谷はもうエリちゃんと会っていたみたいだ、そして加藤とも二人で話していたみたいだった。エリちゃんは仕事で来られなかった、そしてぼく達は久しぶりにチームで揃った。彼らは警察官と留置場がいかに下らない場所かについて冗談交じりに話した。ぼくについて「お前も経験させてやっても良かったかもな。」と笑いながら話し、ぼくらもそれについて意見を述べ、久しぶりに楽しく話した。ぼく達は何も変わっていなかった、少なくとも表面上は。勘定はぼくとナオが払った。ぼくがナオを見ると彼は「いいんだ。お前が悪いわけじゃない。」と言った。 
みんなで死ぬほど飲んだ、綿谷は路上で吐いていた、ぼくの部屋に来てまた酒を飲み、誰がベッドで寝るかをカードで決め、雑魚寝をして、次の日帰っていった。ぼくはひどい二日酔いを収めるために余っていた酒を適当に飲み、また眠った。浅い眠りで、変な夢を見ているような気がした。起きてもまだ気分は悪く、奇妙な夢の浅い記憶の跡がそれにべっとりと粘り付いているような気分だった。 

そのあとも平穏な日々が続いた。ぼくは学校に行き、テストに備えノートを集めた。麻雀をして負けた。チームの奴らと会って話をし、たまに飲んだ。バイトをこなした。サークルの奴らとは一定の距離を置き、部屋にはもう行かなかった。 
そういえば最近ユカリに会っていないな。と思っていたとき、ユカリから連絡が来た、「今日学校が終わったら部屋に行っていい?」と。「いいよ。学校じゃだめなの?」とぼくは言った。「うん、私たちの話だし、ちゃんと会って話をしたい。」ぼくは時計を見た。「午後5時には部屋にいるよ。今日はバイトもない。」 
何の話なのか検討もつかなかったが、取りあえず5時前に部屋に帰った。 

ユカリは部屋に来た、固い決意を維持しようとしているがそれはとても困難である。というような表情をしていた。ぼくは何が何だかよくわからなかったが、とりあえず彼女を部屋に入れ、コーヒーを入れて出した。彼女はそれに手を付けなかった。 

「生理が来ないの。」とユカリは言った。 

 「妊娠しているの。」とユカリは言った。 
ぼくは混乱した。「なぜ分かる?」とぼくは言った。 
「この前検査キットで検査をした。陽性だった。」「それで婦人科に行った。2ヶ月だって。」ユカリは言った。 
ぼくは落ち着こうとした。そうならそれは確かなんだろう。あとはぼくががどう決断するかだ。ぼくはどうする?  

ユカリは哀しく微笑んで言った。「安心して。あんたの子どもじゃない。」 
「あたしには結婚を約束した人がいたの。高校の時付き合っていた人。大学には行かないで、もう働いている。」「卒業するときに別れたの。」「これからは違う道に行くことになるって。でもいつか、その時が来て、来れば、一緒になりたいって。」 

ぼくは訳がわからなかった、ぼくのいつもの部屋が遠近感を欠き、歪み、色を欠いて見えた。ぼくの腕時計だけが唯一そこでたしかに動いていた。 
「そいつと会っていたの?」と僕は不思議なほど冷静に言った。 
ユカリは首を振った。「1回だけ。」 
どうして首を振ったんだ? とぼくは思った。 
「ずっとおれに嘘をついていたの?」とぼくは言った。 
ユカリは激しく首を振った。「違う。それだけは本当に違う。あんたのことが本当に好きだった。今でも好き。ずっといっしょにいたいと思っていた。」ユカリは言った、気がつくと彼女は涙を流していた。 
「でも、事情が変わってしまったの。」と彼女はむしろ自分に言うように言った。 

「どうしてそうなるんだ? そいつより、おれのことが好きなら、他にできることがあるんじゃないのか?」 とぼくは言った、冷静になろうとしていたけど、声は少し大きくなっていた。ユカリは首を振った。「ごめんなさい。」 

わからない。わからない。けど、彼女の言っていることは嘘ではないんだとぼくは思った、彼女は妊娠している。そしてそれはぼくの子ではない。なぜそう分かるのかわからないけど、そうなんだろう。そして彼女には、他に男がいる。そういうことになるんだろう。ぼくは黙っていた。遠近感を欠いたぼくの部屋のドアははるか向こうにあるように見えた。 

「ほんとうにごめんなさい。あなたに会えてうれしかった。ずっといっしょにいたかった。」と言って彼女は立ち上がり、コートを着て遥か遠くにあるように見えるドアから外に出て行った。彼女はなるべく音を立てないようにしてドアを閉めたのだが、その静かな音はぼくの耳に届き、ぼくの心のいちばん深いところに響いた。 

ぼくはしばらく何も考えることが出来ずにいた。どれくらいそうしていたのかわからない、気がつくと星が見えていた。オリオン座と、冬の大三角形が。ぼくはそれを眺めていた。何万光年も離れた時間と空間にあり、一層光り輝きながら三角形をその不確かな空間に形作るその恒星たちを。そしてふと、三角形の下の角の近くにあって、ちょっと迷うような星のことを思い、それを探した。でもそれはどこにも見えなかった、あの時たしかにあったはずなのに、そしてぼくはどっちがその星なのだろうと考えたのに。でもそれはもう無かった。消えてしまったのかもしれない。この数ヶ月の。そして何万光年か前に。ユカリが手を付けなかった、冷え切ったコーヒーのように。 

星たちのことを思った。話しかけても、手を伸ばしても、何をしてもそれらは届かない。近くにあるように見えて、遥か遠くにある。 

エリちゃんから電話がかかってきた。「いろいろありがとう。あなたにはとても感謝している。でもわたしと綿谷くんは多分別れることになると思う。裁判が終わってからになるけど。そのまえにわたしの気持ちを伝えておきたかった。もう会うこともないかもしれないし、もちろんわたしは会いたいと思うけど。」と彼女は言った。 

「そうだね。残念だけどしょうがない。君に会うことは出来ないと思う。おれ達はチームだから。」ぼくは言った。 
「うん。」「ねえ、あなたの名前はなんて言うの? アキ、としか知らないんだけど。」彼女は言った。ぼくも彼女の名前を知らない。 
「おれの名前。」とぼくは言った。「おれの名前は……」 
「アキラ。」「佐藤明良。」とぼくは言った。 

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