社交が怖い

人と話すのが怖い。もちろん吃音だからというのもあるが、それとは別の要因で、人と話すのが怖い。

何が怖いのか。それは自分をさらけ出すことだ。
では、自分とは何か。これを言語化するのは難しいが、趣味・嗜好(何が好きで何が嫌いか)、価値観・思想(どんなことを考えているか)、何気ない振る舞い、心理状態、美的センス、常識感覚(世間とのズレ具合)等、いわゆる「自分らしさ」を構成する要素となるような部分のことである。

昔から、自分には、他人からズレていると思われることを過度に恐れている節がある。ズレていることは恥ずかしいし、それが原因で人に嫌われるかもしれないという思いが強い。何か話したり、目立つような行動を取ったりすると、ボロを出すかもしれない。でも、自分のどこがズレているのか分からない。何をすれば、空気を読めていることになるのか分からない。なるべく口を挟まず、目立たないでいよう。このような思考回路から、集団の中で沈黙を決め込んでしまうことが多い。

要するに、自分の中の核心的な部分を他者に知られることを恐れて、何もできなくなってしまっているのである。逆に言えば、自分の中の核心的な部分を知られないような状況では、それなりにコミュニケーションを取ることができる。そのような自分の心理を的確に表現してくれている文章が、入江紗代さんの『かんもくの声』の中にあった。
 

私は話すために媒介を必要とする。役割が媒介となって、やっと話せる私を獲得する。生身の私として人に対することが苦痛ゆえ、役割と同一化することには、私が空白化されていく快感があった。話せない苦労においては、役割と同一化してしまう方が生きやすいのだ。しかし、このルートで獲得した「話せる私」は本来の私とはズレている。(『かんもくの声』入江紗代著、学苑社、p259)

『かんもくの声』は、場面緘黙症経験者の入江さんが、当事者研究的なスタイルで、自身の社交について記述された著書である。自分は場面緘黙症の診断は受けていないものの、この本の記述には共感する部分が非常に多かった。中でも、上の引用文は自分の脳内に衝撃が走るほど共感した箇所である。

自分は最近よく吃音についてよく語っているが、それについてはあまり苦痛ではない。なぜなら、それらを語ることは自分を語っているわけではない。もちろん、自分なりに考えたことを語っているのは間違いないのだが、どちらかと言えば「吃音者」としての役割を背負って語っている感覚が大きい。自分にとって吃音とは、なぜか自分の中に存在している得体のしれないもの、つまり自分の身体の内部にありながら思考の外部にあるものであって、自分そのものではないのである。だから吃音のことを語る時は、自分のことではなく、自分の外にある何かについて語っているような感覚なのである。この意味で吃音は自分にとってコミュニケーションの媒介物となっている。

(※ただし、自助会や当事者研究会以外の場で吃音をカミングアウトするようなときはかなり抵抗感がある。この場合、吃音であるということを、自分事として語らなければならないからである。)

仕事の話についても同様だ。職場の同僚に仕事の話をしたとしても、基本的に自分の内面をさらすわけではない。あくまで、自分の外部のものとしての仕事という媒介物を通じて、コミュニケーションを取っており、この場において単に自分は社員としての役割を果たしているだけである。なので、職場の同僚と仕事の話をするのもあまり苦ではない。

一番苦労するのが、「何気ない雑談」である。雑談は個人の内面が強く出てくるし、ある意味、センスが問われる。しかも、役割を演じることができず、媒介となるようなものがない。つまり、自分の内面を、ダイレクトに相手にぶつける形になるからだ。この時の自分の心理状態は、以下のようなものである。

周りになじめず、カチコチに固まって全然話せなくなることが今もまれにありますが、[…]、いわば、一時的な緘黙症状と言えるでしょうか。外から見ると固まって何も考えていないようだけど、頭のなかはこの振る舞いでいいのだろうかという他人からのまなざしへの恐怖が高速回転していて、ふらふらになります。
 それは、マジョリティ的文法が支配する場所でよく起こります。その文法は、当事者研究のようにゆっくり丁寧に対話していくのとは真逆で、瞬発的面白さが重んじられます。あるいは、何らかの能力の高さも大事にされます。逆に、弱さを公開するようなことは忌避されます。(「人をがんばってバカにしてしまう病の研究」マイル著、『モテないけど生きてます』ぼくらの非モテ研究会編著、青弓社、p230)

マイルさんが言うように、「マジョリティ的文法」が支配する場所」において、「この振る舞いでいいのだろうだろうかという他者からのまなざしへの恐怖が高速回転して」いるのである。どこか“正解”的な振る舞いを探り探りしているうちに、身動きが取れなくなる。

ここでいうマジョリティ的文法というのは、マイルさんの言う「瞬発的面白さ」「能力の高さ」「弱さの公開への忌避」等、要するに「普通」とされるコミュニケーションのことである。その文法の中では、ポップな話題か、あるいは大多数が忌避感をおぼえない範囲内でのディープな話題のみが許容され、面白くもなく、生産性もないような話題は回避される。要するに、話の内容が評価されるような空気感があるのである。考えすぎなのかもしれないが、少なくとも自分にはそのように思えてしまい、その空気の中で自分の面白くなさや感覚のズレみたいなものが露呈してしまうのが怖い。

そして、このいろいろと考えすぎてしまっている状態そのものが、逆に相手にとってとっつきにくい雰囲気を醸し出しているのかもしれないとも思う。多分、雑談というものはもっと軽やかに流れていくものなのだと思う。ただ、自分がその流れに乗っかろうとすると、どこかぎこちなかったり、なんかズレていたりする。もし上手に乗れたとしても、それはかなり無理して絞り出したものであることが多いので、だんだん疲れてくるのである。

このような形で、自分は社交に対して苦手意識があるのだが、厄介なことに、自分は実は結構お喋り好きなのである。だからこそ、本当はもっと人とたくさんお喋りがしたいのにそれができないことが多い、ということに対してもどかしさを感じている。「話したいけど話すのが怖い」という自己矛盾が、昔からずっと自分の中に渦巻いている。本当は自分を語りたくて仕方がないのだが、自分が本当に語りたいことというのは、あまりポップじゃないし、大半の人にとっては心底どうでもよくて、なんならちょっと歪んでいるようにも見えるのではないかと思う。

「自分らしくありたい」という希望と、「自分らしくしていては受け容れてもらえない」という絶望の中で、自分の社交不安的な部分が浮かび上がってきているのだろう。だからこそ、「この人は自分を受け入れてくれる!」という人の前では、そういう社交不安的な部分を忘れるかのように、嬉々としてお喋りをしてしまうのであるが。

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