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「前向きに生きる」が、まるで分らない

多くの人生哲学的な文書、成功哲学に関する書類、成功者の体験談において、共通している言葉は、

人間は前向きであるべき

という事の様な気がする。正直、鬱陶しい言葉だなと思っている。

では、果たして、この「前向き」っていうのは、何を言うのだろうか。これについて、明確な答えを拾えた事がない。
説明をしようとしているのは、山ほどある。山ほど「前向きについて」書き物がある。「ポジティブでいることです」「人生を楽観的にとらえることです」「心身の健康には前向きであることです」「悲観的では、幸せになれません」・・・
実際は、どれもこれも、堂々巡りの説明で、「これを循環定義って言うのかな・・・」と、考えたことも無いことを考えそうになるくらいだった。それぐらい、前向きであることは、楽観的であり、ポジティブであり、ポジティブであることは、前向きであることなのだ。

そもそも、二元論的なこうした解釈で人生が決まるのか、決まらないにしても、その「生きるプロセス」を語ってしまえるのか、という議論もある。
実際、人間は生きている間にグレーゾーンと呼ばれる二元論的に分けられない世界観を受け入れながら生きていくものなのだ・・・とよく言われる。「白黒はっきりさせるなんて、そんなの無理」「~パーソナリティ障害では、スプリッティングといって、何でも物事を善悪のどちらかに分けるような傾向があります」などなど。
それでいて、前向きと後ろ向き、ポジティブとネガティブは二元論的なのだ。
しかし、それは、少し考えると、全てを語れないし、この理屈だけでは確かに、このダイバージェンスな世の中を説明したり理解したり、そこで幸せに生きるには、難しいが、二元論が当てはまる時空がある。それが、

生・死

であったりする。先日のエントリで、脳死はどちらか・・・という議論はあるにしろ、その問題であっても、「心の所在を脳にした場合は、死であろう」と言えるかもしれない。

ポジティブ・前向きとは

私は、この件で何度か人生で嫌な思いをした覚えがある。何かにつけて、私は否定的、悲観的、後ろ向き、という指摘を受けることが多かった。私にとっては、正に前向き、と思っている内容であっても、後ろ向きと言われたりする。なんでだろう・・・一つは個人差がある。その人の価値観や人生観、もっと言えば、「聞きたい事じゃない」のは、全部「否定的・悲観的」で後ろ向きなのだ。でも、それを通り越しても、果たして、前向きというのは、何に向いているのか。

最初に浮かんだのは、「行動している」という事だった。それは、「自らの思った通りに動く」という事。いうなれば、

「自らの信じる自己と、実際の自我が同一性を保ち、そこから出てくる発想を源とした行動をとれている」ことが、「前向き」である

と表現されるのではないか。自我同一性、アイデンティティーの確立がある程度うまく生き、そこから生まれる欲動(リビドー)が行動の原動力になっている、そういう行動。それこそ、「前向き」なのかもしれないと思った。そうなると、その向きは、どこに向かっているか。それは、「生きる」という道に向かっている。

「生きてんだから、当たり前じゃん」と思うかもしれなけれど、私の発想は実際には、「死」に向かっている事が多かった。もっと言えば、私はアイデンティティーの確立が上手くいっていない。これは、私だけでなく、他者との間でもある程度一致した見解。まず、リビドーが弱い・・・のか、それを認知できないのか分からないけれど。
そして、行動は常に他人の発想による動機付けで起こる。なので、私が定義した、「自我同一性が確立された状態で沸き起こる欲動を源とする行動」ではない。殆どが、他者に言われたから・・・というのがスタートである。
実際、この事実に納得したときは、つらかった。カウンセラーと話している中でも、この言葉の通りではないにしろ、所謂、自分の軸がない行動による結果の今、という文脈では随分、話をしている。

前向きに生きること

前向きに生きることと、人生が成功することを混ぜて語られることが多いが、これについては全く別の話だと思うし、人生の成功って、何のこと言ってんの、って感じで個人で違うし、周りの言う成功を手に入れ、正に自我同一性が確立された状態で沸き起こる欲動を源とする行動、によって幸せになるか、というのは実際には分からない。

ただ、一つ実感できることは、言い訳をする必要がない、という事だ。自己責任という言葉の定義が、かなり乱暴になっているので、あまり使いたくないけれど、ともかく、そうした、「自我同一性が確立されたっ状態で沸き起こる欲動を源とした行動」をすることで、自分で思いついて、自分で動く。そして、その結果が例えば期待通りにいかない場合は、なぜか言い訳をしなくても、その結果を受け入れられる。そして、「学習」という、素晴らしい効果が生まれる。
言い訳が出てしまう行動から、学習は生まれにくい。効果測定が正しく行われずらいし、まず言い訳していることで、その時点で「今回の行動が期待通りの結果を生まなかった」という事実を受け入れることができていない。
言い訳で面倒臭いのは、他者に対してではない。自分に対して、言い訳をすることだ。もしくは、自分の中で「自分が考えた行動ではないのだから、結果がどうであっても良いが、説明せよと言われれば、説明しますよ」というような、傍観的な態度を取り続けることは、学びの機会を減らす。これが私である。

「行動」「停止」

私は、どちらかというと、停止していた。それでも、ある時期、どうしてもその場にいることができず、何とか動きたくなった。しかし、私の中で、アイデンティティーの確立が上手くいってなかったので、自分の欲動を知ることや、その目的の為にどんな順番で何をしたらよいか、という「考える」行動すらできず、自分がそこから出たい、と思うことだけを頼りに他人の決定に従い続けた。私は、停止していたのだ。

停止していると、何もなく、そのまま死を迎える。実際は、死は方向性ではなく、帰着なのだろうと思う。この辺は何とも言えないが、いくら前向きに考えて、「生」に向かった行動を続けていても、人は必ず「死」という状態を迎え、全てが停止する。停止は、ある意味、最後に来るものなのだ。しかし、欲動を無視したり、欲動が沸かない状態を放置したりしていると、行動することはなくなり、停止する状態が続く。時間は、実際には人間が定義しただけで、結局は肉体の老朽化が進み機能を停止するまでを一生と言っているだけで、その間に何をしたいの?っていう話なのだろうと思う。
「生」という状態を「停止」で過ごすのも一生。それが良いとか悪いとか、そう言う価値観はここでは無視するけれど、本来的に私たち人間は、「行動」をするようにできている。

それは、子孫を残すため。行動は子孫を残すために無くてはならない現象なのだ。だから、停止しているのはある意味、人間の本性を無視した「生」という事になる。誤解を恐れず言えば、選択的なものであるにしても、動物としての人間がなぜ生きているか、というのは絵を描くためだけでもなければ、音楽を奏でるだけでもなく、金を設けてその「生」を謳歌するためでもない。すべては子孫繁栄のため。
だから、極端な話、自我同一性が無くても、子孫繁栄は出来なくはない。ともかく、私の様に他人の欲動に頼り、子孫を残せばよいのだから。そこで、「では、アイデンティティがない状態の人生を生きることは、アイデンティティが欠落しているけれど、子供を育てている人生より劣っているのか」という議論もあるが、これについてはここでは話をしない。

前向き=「生」を受け入れる

話を最初に戻すと、「生」を受け入れることは行動につながり、そうした仕組みを持つことを、前向きに生きる、という事としてみた。
ここまで書いておいて、なんだけれど、実は私はこれができない。もちろん、自己と自我の同一性が上手くいかなかった成育歴や、それを発端にした他者依存の行動、そしてその行動が生んだ現実と私の幼い自我の間で起きた大きな摩擦が蓄積し、鬱病として発症した事、その後の混乱で、社会的立場や金銭的余裕もなくなり、家族構成も変わってしまい、正に混乱が混乱を招いたことなど、こじれまくった私は、説明してみたものの、「ではやってみろ」と言われて、それが今できない。

自我の幼さは、欲動をどう扱ってよいか分からない。しかし、もしかするとこれには、人間が作る「社会」という仕組みが関わっているのかもしれない。もちろん、様々な思いが良くも悪くも「社会」に集約されていると思うので、欲動がもつ目的もその中にあるかもしれない。しかし、もし社会という枠組みから外れていいなら、幼いままの欲動で行動してよいのであれば、幼い自我と、自己責任が取れない自己のバランスを取りつつ欲動を解放し、行動に移すことで、自我同一性を確立できるかもしれない。

もしかすると、インナーチャイルドとか言うのはこのあたりの話かもしれないな、と思う。しかし、そんな出来合いの言葉で納得できるなら、こんなにクドクド書かない。私が、自我同一性の確立の一つの方法として見つけたのが、幼児性の解放である。

幼児性の解放

幼児の時に、幼児でいられない状態、所謂、アダルトチルドレンと言われる状態で育つことで、アイデンティティは上手いこと育たないが、成人してからでも何かしらの形で、アイデンティティを確立する事は出来ると思う。その中で必要なのは、幼児性の解放ではないだろうか。子供に戻る。身も心も。母親や父親という存在が「何なのかよくわからない」状態で、子供が何をするか。

「甘える」

ということだ。もちろん、身も心も。口唇期、エディプス期に戻るくらい。

幼児性の解放については、ちょっとまた考えて書くことにするけれど、私は今日、取り敢えず、前向きに生きることを屁理屈で説明してみた。

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