こぶとりじいさん

 鼓の音に合わせてステップを踏んだ。学生時代に私を笑った、多くの同級生の顔が浮かんできた。彼らのおかげで踊りは身についたようなものだった。彼らが私を馬鹿にして鳴らす手拍子が、私にこの足さばきを記憶させた。右頬にある瘤が、ステップを踏むたびに上下に揺れた。鬼はそれを見て大変に喜んだ。鬼は私から瘤を取った。


 自宅の戸を開けると妻の心配そうな顔が目に入った。随分と予定よりも遅い帰宅になったのだから無理もなかった。妻は私の存在を認めると、心配の顔が、困惑の顔へと変化していった。妻の目は、私の右頬から動かなかった。妻の目から涙がこぼれた。鬼は私から瘤を取った。妻は私の手を取った。


 近所に住む者たちも皆一様に私の姿を見て驚いた。今まで私を避けるようにしていた者たちが、私に話しかけてくるようになった。自分の言葉が相手に伝わるということは実に興味深い体験であった。誰も私の話など聞いて来なかったのだ。鬼は私から瘤を取った。私は私に向けられていた偏見の目を取った。


 人々が私の言葉を聞いてくれるということが嬉しく、何を言えば相手がどう思うのか、そのことを考えるのが楽しくて楽しくて仕方がなかった。言葉を介して自分の意思や気持ちを表現するという行為についてより興味を持った。言葉の使い方1つで伝わり方は大きく変化した。私は言語を学ぼうと大学へと通った。鬼は私から瘤を取った。私は言語の授業を取った。


 言語を学ぶことで私の言葉は、より相手の奥深くへと届くようになっていった。気づけば私の元へと、悩みを打ち明ける人が集まってくるようになった。私は、人々の話を丁寧に聞いた。鬼は私から瘤を取った。妻は彼らから相談料を取った。


 私の生活は充実していった。私の元に訪れた、表情を無くした人々が、豊かな表情を携えて帰っていく。そのことが私の表情をも豊かにした。それぞれの相談が、私を成長させる養分のようでもあった。相談料によって私たちの暮らしも豊かになった。妻は変わらず、私に料理を振舞ってくれた。以前よりも食卓に並ぶ皿の数が増えていった。たまには、楽をさせてやりたかった。鬼は私から瘤を取った。私はピザをとった。


 詩を書いた。言葉を知り、多くの人の考え方に触れ、私の価値観は変化した。今だからこそ出来る表現を残したかった。詩には、妻への愛を綴った。妻は、私に瘤があった頃から、私のそばに寄り添ってくれていた、唯一の人だった。妻の誕生日に、この詩を送った。鬼は私から瘤を取った。妻はまたひとつ、歳をとった。


 眠っているようだった。そこにあるはずの妻の身体は、先ほどまでと何一つ変わりなかった。ただ、息だけはしていなかった。妻の身体は冷たかった。今まで私に注いでくれた愛情は、この身体から生み出されていたのだ。もう、それを生み出すことは出来なかった。鬼は私から瘤を取った。私は妻を看取った。


 最後に着たのはいつだろうか。通夜のために礼服に着替えなければならなかった。妻が礼服を用意してくれることはなかった。私は、押入れの奥から礼服を引っ張り出した。礼服には、押入れの匂いが染み付いていた。押入れの匂いは、妻の匂いに似ていた。シャツを羽織り、スラックスを履いた。スラックスのホックを止めるのが苦しく感じた。鬼は私から瘤を取った。私は少しだけ、太った。



こぶとりじいさん。

 

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