マスクなしの生活を思い出す
オリンピックが終わりましたね。
閉会式で今の日本では滅多にみかけないマスクをつけない人たちを見て、ふとコロナ前の生活を思い出しました。
コロナウイルスは世界中の人にトラウマのような傷を与え、コロナ禍前の生活は幻にさえ感じます。私にもおおきな影響を与えたコロナウイルスを知らなかった時代を思い出してみました。
コロナ前の世界
マスクを着けるか否か選ぶ権利があった
中高生の頃、ルックスコンプレックスでマスクを着けていた。また冬は寒い空気で頭が痛くなってしまうのでマスクを着けることが多い。今は着けなきゃいけない。マスクの未着用は違法ではないが、実質違法かのような空気が家以外どこにいても流れている。
街にいる99%がマスクを着けてる光景はなかった
昔の私は電車に乗ったら、周りにいる疲れ顔のサラリーマンや学生・明らかに世間より時の流れがのんびりなおじいちゃんを見ながら人間観察をしていました。一人ひとり違う性格・居場所・価値観がありそうで、彼らの生活を想像してみるのが楽しかった。最近はみんなマスクを着けてる光景が気味が悪いので人間観察は休止しています。
深呼吸したい気分のとき思いっきり空気を吸えた
いつも「あ、気が詰まってるな」と思ったら、鼻から目いっぱいの空気を吸って、ふう!って口から吐き出します。今は鼻も口もマスクに覆われてしまっています。最近マスクをこっそり外して思いっきり息が吸えるのは、人気がない夜の帰り道くらい。
コロナを知らない頃の私
会いたくなったら「今日飲も!」とラインしてた
大体こういうときに行き着くのは大学があった武蔵境や吉祥寺にあるトリキですね(笑)昔から友達ラブ人間だったので、今の生活はさみしいです。
いきなり私生活の話題からパンデミックに混乱してたドイツへと話が飛びますが笑、メルケル首相がテレビ演説を通して国民にかけた言葉は「行動の自由」にまつわるものでした。
本来、行動の制限は民主主義において決して安易に受け入れてはいけないものだ。なぜなら「移動の自由」は先代が苦難の末に勝ち取ったものだからだ、と。
行動制限されることに慣れたくないです。友達に会う自由!まじで戻ってこい!!!!!!!!!(暴走)
飲みの場に透明のついたてがなかった
煩わしいあいつがなかった居酒屋が恋しい。透明のついたてがあると相手の声が聞こえにくいせいか、最近は爆速テンポで進む恋バナをあまりしてない気がします。さびしい。
コロナが私に与えた好影響(基本ない)
電車のなかで他人の嫌な匂いや不愉快になる怒鳴り声を聞かなくなった
コロナより前は、たぶんコーヒーと煙草をかなり好んでるだろう人の息によく殺されてました。人間からこんな匂い出せちゃうの?!レベルのもの。
また朝の満員電車で機嫌が悪い他人から肘アタックをくらったり、論理が破綻した怒りを叫ぶのを聞くことがなくなりました。ソーシャルディスタンスの意識から派生した「自己防衛できる他人との距離感」には感謝したい。
リモートワークの文化が運良く手に入った!
大学時代、海外でリモートワークが普及しているという話を聞いた私は、足を運ぶことに意味がある!という風潮が消えてほしいと心の底から思っていました。体力がなくて超マイペース人間にとっては、出社を強いられることはすごくストレスだったからです。(研修期間の質疑応答の時間に「海外ではパンデミックをきっかけにリモートでの営業活動も取り入れる会社が増えてますが、自社はリモートに傾いたりしますか?」という質問を古き良き営業の会社の先輩に聞いたまである)
リモートワークはじめ働き方に選択肢が増えたことは、コロナ禍の恩恵とは呼びたくありませんが、苦難と恐怖を引き換えにして得られたものではあると思います。
コロナ収束して....
やはり私はコロナがなかった自由な生活が好きです。政治に大荒れ模様もうんざり。オリンピックは終わったことだし、もう時期あるだろう選挙で誰を選ぼうか考えとこうかな。
- おわり -
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