見出し画像

今の私がこうしていられるのは

こんばんは。
2日連続投稿する予定じゃなかったんだけど、Youtubeでカジサックとヨメサックがしっぽり飲みながら夫婦の話をしてる動画を見ながら私も1杯やってたら書きたくなってしまった。

タイトルにしてる今の私がこうしていられる理由を考えてみた。
何より35年の人生で一番私を変えてくれた時期は多感だった15歳からの3年間。
誰もが経験するであろうthe青春時代。そう高校時代。

この3年間が今のところ私の人生で一番インパクトが大きい。
それまでの価値観がくるっと180度変わった密度の濃い3年間だった。たかが15歳の価値観なんてって思っていたけれど、その後の人生にもやはり大きく影響している。
高校時代に特化せずとも、私に共通しているのは出会う人が全ていい人。私と知り合って仲良くなってくれる人がみんなとってもいい人。
「私に合うから良い人」「肌が合うから良い人」とかじゃなくって、なんと言うかどんな人のことも否定せずにその人を知ろうとする努力をする人たち。

高校に入るまでの中学生の時は、その高校が目標だったから必死で勉強してたし悪いことをする所謂不良たちを軽蔑し、自分がいい子でいることを若干誇ってた。先生からも褒められる優等生。そして周りから”見える数字”で評価されることに満足してたし、それでいいと思ってた。
でも、高校で知り合った人たちはとんでもなく変わった人ばかり。同級生も先輩も後輩も。衝撃!としか言えない。衝撃すぎて一時期パニックになってた。自分の価値観が通用しなくて、同じ価値観で繋がろうとする人が少なくて、むしろ違う人たちと繋がることを楽しんでる人たちだった。群れることがダサいな!って人ばかりで、その年頃の人たちにしたら特殊な考え方だったと思う。「なにこれ!」って思ったのを覚えてる。でも、すごく新鮮で「こう言うのもいいだ!」って何かが私の中で弾けた瞬間だった。
そこからと言うもの、よく遊んだし勉強は二の次になってたし一気に開けた感覚だったのを覚えてる。成績は急降下し、夜遅くまで帰らないし親は心底心配してた。でも実際は渋谷でナンパ待ち〜とか、ギャルサー(時代でるw)に入ってパラパラやってる(当時の流行。ヤマンバとかCoCoLuLuとかアルバ)とかじゃなくて、夏休みは1日中でっかい公園を全部使って隠れんぼを20人くらいでやってたり、江ノ島でゆずみたいなPVみたいなのを撮ろうとして洋服のまま海入って、服が乾かないと電車乗れないから海岸で寝てたり、真冬の雪降る公園でキンキンに冷えた缶酎ハイを飲みながらガスコンロでおでんを食べたりしていた。お巡りさんまで注意する気力もなく「早く帰りなさいよー。いい匂いだなー火傷するなよ。家事と負傷者は出すな」って。見るからに悪いことする子供には見えなかったんだろうな。「さむーい!って言いながらキャッキャしてただけだったもんな。集まってる人たちもギャル男っぽいのもいれば真面目の代名詞みたいな子もいれば、裏原系の女子、パンクな女子いろいろな子が一緒に遊んでた。私の思考は見えることで人を判断しない、中身を大切にする思考に変わっていった。人って知ろうとしないと、何もわかり合えないんだなと。

ともあれ、そこで関わった人たちのおかげで色々な引き寄せる力を手に入れたと思う。特に「人を引き寄せる力=聞く力・興味を持つ力」を得た。大人になってからもこの力が私の人生を大きく変えていることは明確だった。
一応、都立とは言え進学校だったしみんな成績優秀。高校生活謳歌しすぎて学力が追いつかなくて一浪してる人でも、翌年大体がいい大学に進学する人たち。そんな人たちと3年間過ごせたことが、今私の人生が豊かだと思える土壌となったんだと思う。

卒業後は、とっても大事なその力を失いかける様な時期もあった。何にも考えず好きなことばっかして遊び呆けてた時期もあった。
知らずに得ていた力がいかに大きかったかということを徐々に実感していくのは、22歳をすぎて社会に出たときだった。人の粗探しをしては陰口を言ったり、自分を卑下して悲観する人がこんなにも多くいるのかと会社などで知り合う人を通して自分を見たときに「あのとんでもなくぶっとんでる素敵な仲間に出会えて本当に良かった」と幾度となく思った。自分は何者でもないけれど、素敵な仲間がいることに誇りを持って生きているし、自分のありのままの姿を恥じることはその時も今も全くない。
何か悩んだり停滞期になると「私にはあの時の仲間がいて、みんな今頑張ってる!」「あの3年間は辛いことがあっても次の日には笑えてた」「どうやってたっけ?」と常に立ち返る人生という大きなプロジェクトの中のマイルストーン。もちろん、いろんな経験をして停滞期を乗り越える術はアップデートされてるけど、根幹にあるのはあの時の経験。

今でもその仲間たちは絶対的に仲間で、何があっても見捨てることはしないし、寄り添って助ける。と決めている。
当たり前だが、両親も理解があって好きなことをやらせてくれて不自由なく育ててくれた理解がある親。とても感謝している。
アメリカ人と結婚すると決めてから報告し、翌年には相手の転勤で渡米すると告げても快く送り出してくれて、離婚して出戻っても快く迎え入れてくれて、子育てを手伝ってくれている。本当に感謝している。だけど、今の人格が形成されたのは間違いなくあの3年間をともに過ごしてくれてた仲間たち。実はその3年間、応援団という特殊な団体に属していたことも関係しているのかもしれない。今では珍しい根性論を突っ走っていた応援団。チアリーダーではない、女子も応援団員。「妥協すんなー!」って毎日言われてた。だけど練習以外ではとっても暖かくて素敵だと思える先輩たちと過ごした。そんな団体で私は3年生になる春に、総チーフに任命されて嬉しさと80%は畏れを抱いてた。前回の投稿につながるけれど、この時も私は間違いなく応援団に没頭していて総チーフをやり切ることに全神経を集中させていた。させすぎて部活も辞めた。総チーフになって二足の草鞋履いて超無責任、そんなチーフに後輩がついてくるわけない!って考えね。若かったし輝いてた。3年生の春にある体育祭を終えると退団。燃え尽きた。燃え尽きて廃人になった。
今はいい感じにくすんでいい味出してる大人になってきてると思いたい。
応援団の話はまた今度ゆっくり振り返ろう。

結局、今晩もつらつらと自分のこと書いていた。
お付き合いいただきありがとうございます。
久々にお酒を飲んだもので、ちょっとセンチメンタルな感じ。
そんな夜があってもいい。

明日も仕事頑張るぞ。そしてあまり息子を怒らない日にしよう。
と決めて結びます。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?