死の口づけ
彼女は『毒』と言われていた。
なぜそう言われるのかはっきりしたことは知らない。ただ私が彼女に実際に会う前に、噂は聞いたことがあった。あるサロンに出入りする、美しい人がいて『毒』と呼ばれているのだ、と。
──なぜそんな奇妙な名前がついているのか。
そう、誰かが聞いたような気がする。
その答えは何だっただろうか。
私はただ、目を離すことができなかった。彼女はすらりと背が高く、噂通り赤い髪で、噂とは異なり喪服のような、黒いドレスを着ていた。彼女を見つめる私に気づいたようで、彼女は私に笑いかけた。……そう、私はそう思った。しかしそれは私の都合の良い妄想ではなく、彼女は壁を離れて私に近づいてきた。
「……私の噂を知ってる?」
彼女は存外、低い声でそう囁いた。その声音はなんと形容したら良いのだろう。囁くような、風の擦れるような。それでいて私の耳のそばで囁かれたかのように、はっきりと声が届く。背筋が震えるような心地がした。熱病に罹ったのか、怖いのか、寒いのか。私は曖昧に頷いた。彼女は笑った。熟した果実のように唇は赤く艶がある。
「そう、なんて聞いた?」
私は口を開いた。口のなかはカラカラに乾いていた。
「毒の女……、キスをすると死ぬ、と」
にんまりと『毒の女』は笑った。私は彼女が緑の服を着ていると聞いていた。その服には毒が染みていて、彼女に触れる人を病ませるとも。今、彼女は黒い服を着ている。凝ったレース模様が織り込まれ、波打ち、彼女を大切なもののように、何らかの加護のごとく包んでいる。
「どう思う? 噂を信じた?」
私は首を振った。私はそのようなばかばかしい噂を信じない。
「先週、このサロンに通う人で、死んだ人がいるのは知ってる?」
私は知っていた。いくつかのサロンに出入りする、名と金のある男で、何より愛嬌があって好かれていた。男も女も、彼のことが好きだった。
「先日、彼とキスをした」
彼女はため息を吐いて、私の腕にそっと手を置いた。電流が走ったように私は震えた。体は熱くなり、寒くなり、熱くなる。私は彼女の唇から目を離せなくなってしまった。『毒の女』なんてきっと嘘だ。彼女に恋をして破れた誰かが悪意をもって嘘を流したのだろう。しかし、こうして実際に会うと、たちまち魔法のように私は彼女に魅了されてしまった。まるで繰り返された、おとぎ話のようだ。そこに罠があると分かっていても、迷い込む旅人のように。
「私とキスしたい?」
私は躊躇った。会ったばかりなのにキスしたいと思う。もしこのままキスしなかったら間違いなく後悔し続ける。ずっとこの唇のことを考え続けるだろう。だから私は頷いた。彼女は微笑んで、キスして、と言い、目を閉じてしまう。私は頬が熱くなった。目を閉じると、彼女はまるで陶器でできた人形のようだ。そっと手を伸ばして、彼女の頬に触れる。彼女のまぶたが震えて、赤い唇が笑う。そして私は顔を寄せて、唇を重ねた。
そのとき、何かがはじけたような気がした。
彼女の手が、私の腕を掴み損ねて、私の白いドレスの端を掴もうとして、そのまま床に倒れてしまった。
確かに彼女は毒だった。
そして私はその毒を浄化してしまった。私は彼女の体を抱き起こして抱きしめた。
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