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第3部 Vtuber/Vライバー論:キズナアイという「存在」(2)

2.キズナアイという「存在」

Vtuberを語るにあたり、やはりキズナアイ(本人はVtuberという肩書ではなく「ヴァーチャルYoutuber」という肩書にこだわっているが)の存在には触れざるを得ないであろう。キズナアイが最初に動画を投稿しデビューしたのは2016年11月29日であったが、決してその当初から注目された存在ではなかった。この当時は恐らく多くの人がキズナアイという存在を一つのキャラと捉え、そのキャラがYoutubeという舞台で何かやっていくのだと捉えていただろう。

しかしある時期から、我々は「ん?」と思うようになる。気が付けばキズナアイがもはやタレントと言っていい存在となっていたからである。様々なイベントに出演し、アンバサダーなども務めた。TVコマーシャルにも出演し、写真集も出した。さらにはテレビ番組のMCも務め、歌手デビューもし、コンサートも行った。そしてその活動のいずれもが、「キズナアイ」というキャラを使っての誰かの活動ではなく、キズナアイ本人としての活動だったからである。大塚英志がビックリマンの例を挙げて論じたように、キャラが先行し、後から物語が生まれるという例はこれまでもあった。しかしそこでのキャラはあくまでその物語世界を超えることはなかった。しかし、キズナアイはあっさりとそれを超えた。キズナアイはあっさりと、そして何の違和感も感じさせることなく、自然に我々こちら側の世界へとやってきたのである。いつの間にか普通にタレントとしてタレント活動を始めていたである。そして我々もキズナアイをタレントとして、つまりはもはや何らかのキャラではなく人格を持った存在、人間存在として見ていたのである。キズナアイがキャラではなくタレントであるのはキズナアイが声優を務めたことがあることからも明らかであろう。そこで行われているのは演じられるキャラによるキャラの演技(声優)ではなく、キズナアイというタレントによる声優活動なのである。

我々人間がアニメや漫画のキャラクターを人格を持ったもの、実存を備えたものとしてみることができることは第2部でも論じたが、それは違う言い方をすれば、我々はそのキャラが生きる世界をもう一つのリアルと捉えることができるからであった。しかしキズナアイの場合は、まさに我々のこちら側の世界にふらりと、そしてさらりとやってきたのである。これは大きな出来事である。しかし、それを大きな出来事と感じさせなかった(多くの人がそれを大きな出来事と意識しなかった)ことのほうが実はさらに大きな出来事だったのである。

しかし、とは言ってもキズナアイには一応の設定というかストーリーはある。いつごろからこのストーリーが公式に語られるようになったのかは定かではないが(ということはつまりは当初から設定があったというよりも事後的に設定が作られた可能性が高いということを示唆してはいる)キズナアイは自らを人工知能(AI)であると自認している(アイという名前もAIから来ている)。自我が芽生えた当初は姿かたちや声もなかったが、人間のサポートの下でデジタル世界(つまりはモニターの画面上)で動いたり話ができるようになり、「私の生まれた意味」を探すために自分をつくり出した存在である人間についての調査を開始し、さらに自分にできることを模索していたところ、Youtuberという活動形態があることを知り、それを始めた、というストーリーである。モノとして生まれ、意識を持ち、実存(=自らがなんらかの意味を持った存在となる)という点で、まさにサルトル的実存(「本質」に先立ち「存在」する)を生きていると言えよう。

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