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アマゾンプライムお薦めビデオ③ 120 :最高のゲームの最高の映画化!『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』

アメリカでは大ヒットしながら日本ではイマイチだったようですが、それは食わず嫌いならず観らず嫌いだったのでしょう。ここに来てアマゾンプライムビデオでも配信されるようになった『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』を見ましたが、とにかくサイコーでした。これを大画面で見逃していたのはもったいない。背景の隅々にまでこだわって作られている3Dアニメこそ映画館の大画面で見るべき映画です!

人はゲームをするとき、その世界に没頭、没入しています。テレビや映画が客観的に第三者の視点から見るものだとしたら、ゲームにおいて人は主観的に、第一人称の視点でそれを見ています。そう、人には人のゲーム世界があるのです。そこで人はまさに主役であるマリオ(あるいはルイージやピーチ姫やクッパ大王)になりきっているのです。

では、それをどう映画化するのか。映画化にあたり、それが一番大きな課題だったのではないかと思われます。これは私のマリオじゃない、と言われれば終わりだからです。そこで恐らくこの映画ではゲームにおける「主役体験」という視点を取ったと思います。言い換えれば「あなたが楽しんだマリオはここにいるし、あなたこそがそのマリオです」という視点です。その意味でこの映画は一種のメタバース世界についての映画でもあります。この世界は現実にはない、しかしあなたはこの世界に生きており、この世界の主役なのだ、というメッセージがここにはあります。そこでは、もう、男性も女性も関係ありません。そう、女性であってもゲームとしての「スーパーマリオブラザース」や「マリオカート」を楽しんでいるときはマリオでありルイージになれるのです。さらに言えば「マリオカート」では男性であっても「ピーチ姫」になれるし、敢えて悪役の「クッパ大王」にもなれるのです。そう、そこは想像の世界で、その想像の世界での主役はあなたなのです。それがゲームの魅力です。そしてこの映画ではその主役感覚、言い換えれば、同感や共感の感覚を見事に取り入れています。あなたはマリオかもしれない、ルイージかもしれない、ピーチ姫かもしれない、クッパ大王かもしれない、ゲームをやっていた時のその記憶が蘇ります。

このことは、近年流行りのメタバースにも通じるでしょう。というか、既に指摘されているようにビデオゲームは既に一種のメタバースだったのです。人はその世界に入る時、現実の自分という「殻」を脱ぎ捨てます(この映画中にクッパ大王が言う「一皮剥けた」ならぬ「一甲羅剥けた」というセリフとも見事に繋がります)。そしてゲームにおいて、人はあるキャラクターとして動くことによって、今までの自分にはなかった新しい自分に気づかされるし、そしてそれをまた自分自身に取り入れていくのです。

と、考えると、まったく同じことが映画にも言えるでしょう。人は映画を見るとき、そこに没入することによって、新しい自分を獲得するのです。そう、没入体験、その世界に入り込むことの体験こそが、我々をある意味成長させてくれると言えるでしょう。残念ながら人は更なる刺激を欲しがるものです。以前は音や映像だけで人はその没入体験を得ることができていました。しかし今や人はそのキャラを自分自身がコントロールできたり、あるいはまさにVRのようにその世界に自分自身が入り込むことによってしか、没入体験を得られなくなっています。最初に「大画面でこそ見るべき」といったのはそのような意味もあります。大画面で見ることによってこそ、一種のVR効果が得られるからです。そう、これは私自身への反省でもあるのですが、ある時期から人は映画批評というものをスクリーンに映し出されたものの批評と捉えるようになってしまいました(まあ、はっきり言って蓮見重彦以降ですが)しかし、そうではない、映画を見るということは、映画を批評するということは、その世界に入り込むことによってこそ初めて成り立つものなのです。表層ではなく、入り込むことによる体験こそが今の、そしてこれからの映画批評の一つの在り方になるでしょう。その意味では、これはある意味脱表層批評宣言です。恐らく今後は、我々はスクリーンではなく、目、視覚に装着される何らかのデバイスを通して映画や映像作品を見ることになるでしょう。そうなれば、そこで問題となるのはもはや「表層」ではありません。それを何と呼ぶべきかは今後の課題としますが、我々は映像作品を表層を超えた没入のレベルで見る時代に来たとだけはここで宣言しておきます。

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