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SF名作を読もう!(11) 『一九八四年(新訳版)』

前回の『華氏451度』の時にも書きましたが、この『一九八四年』も、もはやSFというジャンルでくくれる小説ではないでしょう。とにかくすごい。やられるというか頭を強く殴られるようなこの感覚は、小説の凄みを、フィクションであるからこそ語ることができるという小説の凄みを余すところなく伝えてくれます。敢えてジャンル分けするとすれば、この小説は社会小説であり思想小説であり、批評小説であり、犯罪小説であり、ある意味では恋愛小説でもあります。おそらくこれをSFという枠で見ているのは日本だけではないでしょうか。

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そう、結局はSFというものをどう定義するかという話になるのですが、仮にそれを「現実的にはありえない世界を描いた小説」などと定義すると、今度はすべての小説、すべてのフィクションはそれがフィクションであるがゆえにSFとなってしまいます。重要なのはSFが「サイエンス・フィクション」ということから考えると、そこに科学的な何かがあるか、ということになるでしょう。


でも、そうすると今後は「では、科学とは?」という問題が出てきます。いわゆる物理学だけが科学ではありません。現在では医学も、心理学も、言語学も立派な科学です。社会科学もその名の通り「科学」です。そして『一九八四年』はそのような意味での「科学」が描かれた小説です。

例えば、そこで描かれているいわゆる簡略版の英語である「ニュースピーク」、これはまさに言語学という科学の問題ですし、言語が思考をコントロールしてしまうという意味で認知科学的な問題でもあります。もちろんこの巻末も含めた上での『一九八四年』という作品なのですが、ご丁寧に、巻末には「ニュースピークの諸原理」という論文的なものまでついてきます(案外これは「付録」的なものだと思って、読まずに終わってしまう人がいるのではないでしょうか。しかし、解説でトマス・ピンチョンが書いているように、これを読むのと読まないのとでは読後感が変わってきますのでご注意を)。「私が私が宙に浮くことができると言って、あなたがそれを真実だと思うのであればそれは真実以外の何物でもない」という趣旨の発言が作中の登場人物の口から発せられますが、それは「結局は科学とはものの見方の問題なのだ」といういわゆるパラダイム問題を示唆しています。その意味で、この小説は科学小説としてのSFを超えたメタ科学小説といってもいいでしょう。そうすると次に出てくる問いは「メタ科学は科学か?」という問いです。そしてこの問いはこの小説のテーマとも深くつながってきます。

とにかく深い、そして強い、そして怖い、そして面白い!SFという観点からだけでなくまさに名作中の名作です。是非お読みください!お薦めです!

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