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第3部 Vtuber/Vライバー論:キズナアイという「存在」(1)

1.ここまでのまとめと第3章の目的

以上、第1部ではSF小説の魅力のメカニズムについて考察し、そこには単に小説というフィクション(非事実)の世界に「科学」(たとえそれが「似非(えせ)科学」であっても)という絶対的な現実性、物理的な意味での現実性としてのノンフィクショナル性を持ちこむことによって、その「リアルさ」を演出するという効果があるだけではなく、「ありえないもの」「混乱するもの」「意味不明なもの」であってもそこに「想像力によって解決する科学」である「パタフィジック」性が取り入れられた場合、そこには開放性と知性(知的快感)を伴った自由で開かれた情趣というものも生じてくること、そしてそれはフィクション側に対してもノンフィクション側に対しても相いれないものであるが故に、人はそこに何とも言えない違和感やためらいやときめきや驚き(あるいは恐れ)を感じること、を見てきた。そしてそれは同時に、「では、リアルとは、現実とはなんなのか」という問いをも突き付けるものであった。

続く第2部では、ファンタスティックなものとしてのアニメの魅力とそのメカニズムを第1部でのSF論を踏まえた上で再確認し、同時にアニメやまんがにおけるキャラクターというもの、特になぜそれが「命」を持つのかについても検討した。一言で言えば、キャラクターが命を持つのは、我々はそこにサルトル的な意味での「実存」を見ているからである。そして本来は「絵」「図像」に過ぎないキャラクターが「実存」しうるのは、それはアニメという世界(リアリティ)の中で、キャラクターはその「本質」に先立って「存在」しているからである。キャラクターは確かにある「設定」に基づき作り出されたものではある。その意味でキャラクターには「作者」がいる。しかし、まさに「キャラが立つ」という言葉通りに、「キャラが(先に)立つ」(先立って存在する)からこそ、言い換えれば、キャラクターというものがまさにそこに存在するからこそ、たとえ作者の意図や設定があったとしてもそこでは必然的に「存在は本質に先立つ」よりほかないのである。事実、キャラクター(=登場人物)が作者の初期設定を超えて動き出すということはよくある話でもある。

しかしこれに対しては「いやいやそれは、我々人間側がキャラクターに対して勝手に「実存」、あるいは「命」を見て(感じて)いるのであって、キャラクター自身が「実存」や「命」を得ているわけではないでしょう」という反論もあろう。しかし/そして、だからこそここで問題となってくるのが、現実とは何か、リアルとは何か、リアリズムとはなにか、という問いであった。そしてそれに対する回答は、「我々が生きている世界、我々が認識しているこの世界も含めて、全てのリアリズムはその中に生きる者にとっては現実(リアル)であるが、同時にその一歩外側に立つとそれは単なる虚構となる」、という見解であった。そしてアニメやまんが、さらにはSFといった広い意味でのファンタスティックな世界としてのファンタジー世界こそが、まさに我々にそのことを気づかせてくれる装置となっているのであった。

ファンタジーが我々に垣間見せてくれるのは何とも言えない違和感やためらいやときめきや驚きや恐れであり、つまりはサルトル的な用語でいうところの「裂け目」としての「無」である。しかし我々は「無」自体を体験することはできない。つまり、我々は「裂け目」としての「無」を垣間見たかと思った瞬間に「実存」への動きへの波へと放り出されるのである。そしてそこでそのファンタジー作品を見ている我々の実存と、そのファンタジー作品内部での登場人物=キャラクターの実存とが交錯することになる。ファンタジー作品(特に本稿で言うところのパタフィジカルなファンタジー作品)が鏡として映し出すのは、我々が生きるこの世界も我々にとっては現実(リアル)であると同時に虚構であるということであり、さらにその鏡像として、キャラクターが生きるアニメの世界も虚構であると同時にそのキャラクターにとっては現実(リアル)である、という地点に、あくまで一時的、垣間見的ではあるが、我々は到達できるのである。この世界には様々な(複数の)「実存」のあり方があり、その意味では我々人間もアニメキャラクターもさらに言えばそこらへんにある「モノ」でもそれぞれにそれぞれの実存のあり方、つまりは世界のあり方、リアルのあり方、リアリティーのあり方がある、という世界であり、また、それらは相互に影響を与え合っている、そのような認識(世界観)である。そしてこのような認識はメタ的な認識(上位概念としての認識)というよりはパタ的な認識(多様概念=「想像力によって解決する科学」としての認識)である。ファンタジーとは、特にここまでに検討してきた用語で言えば「パタフィジック的なファンタジー」とはそのパタ的な認識としての世界観、この世界には同時に様々な世界があり得るし、我々の言う現実世界もその一部である、という世界観への入り口なのである。

「なぜ人はリアルでないものに対してもそれをリアルなものと捉えるのか、なぜ人は現実ではないフィクションの世界の人物や出来事に対してさえも心を動かされるのか、なぜそこに「世界」を感じるのか」というのが本稿のそもそもの出発点であった。ここに来て我々はこう答えることができよう。「なぜなら現実=リアルのあり方とはそもそもが一つではないのだから。それぞれにそれぞれのリアルや「世界」があり、フィクションとは、特に「想像力によって解決する科学」としてのパタフィジック的な要素を含むフィクション(=ファンタジー)とはそれを垣間見せてくれるものなのだから」と。

 以上がここまでのまとめである。そしてここからさらに我々はまた一歩進むこととなる。なぜなら、今まではあくまでフィクションという作品を通して、我々はその様々な世界、言い換えれば様々なリアル、様々なリアリティの中へと入って行っていた。というか、それが、つまりは想像力こそがその唯一の方法であった。しかし、今や事態はさらに一歩進み、今度は様々なリアル、様々なリアリティ側が、いわゆる我々の「リアル」の側へとやってきたからである。その一例がこれから述べるキズナアイに代表される、Vtuber、Vライバーという存在である。そしてそれについて、その存在、その実存について考えていくのがこの第3部である。

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全5部、75本の記事のそれなりの大作ですが、お値段はすべてセットで500円とお得になっています。

主に2022年から2023年3月頃までに書いたSF、アニメ、アバター(Vチューバー)、VR、メタバースについての論考をまとめました。古くな…

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