見出し画像

第5部 VRにおける空間と世界:「実存」から「実在」へ (10)

10.ファンタスティックな空間=世界としてのVRとSF(3): SF(サイエンス・フィクション)としての『三体』におけるXSF(エクストロ=サイエンス(科学・外)・フィクション)としての「三体世界」

繰り返すが、「その不規則性が、科学を無効にするには十分だが、意識を無効にするには不十分であるような世界」「科学の条件が消滅する世界は、必ずしも意識の条件も同様に無効化される世界であるとは限らない」世界、これがメイヤスーのいうところの真のエクストロ=サイエンス世界である。では、このような世界はいかなる条件のもとに存在しうるのか。小説『三体』では三つの同じ質量の太陽が存在する世界、即ち「三体問題」が現実的に存在する世界を設定することでそれを形とした。もちろんこれは小説の世界での話である。そしてそうすることで「科学の可能条件を意識の可能条件から解放すること」に成功し、同時に「科学の条件も意識の条件もともに無効になった、無法状態の宇宙」になることから逃れ得ている。

メイヤスーもこの問題、真のエクストロ=サイエンス世界はいかなる条件のもとに存在しうるのか、という問題に対し、「XSFはサイエンス・フィクションのような文学ジャンルを構成することができるのか」「XSFの物語はいかなる条件のもとに存在しうるのか」「あるいはむしろこうしたタイプの物語は、既に存在しているのか」という問い(p.58)を立てている。そして網羅的ではないとしながらも、次の3つのタイプを提示している。

一つ目は「原因や理由のない断絶、説明不可能な物理現象が圧倒的な規模で生じた世界へと主人公を直ちに突き落とす、一種の物理的カタストロフを、一つだけ導入する」(p.59)というものである。突然電気が存在しなくなるがその理由は一切説明されない、というようなケースである。そして二つ目は「ナンセンス」である。ここでは説明不可能な物理現象が何度も繰り返させるが、それがナンセンスであるが故にそれについての説明は当然ない。そして3つ目は、メイヤスーはこれを「XSFというジャンルを最も忠実に表している解決」(p.61)としているが、「不確かな現実の物語、現実が徐々に崩壊していき、一日一日と我々にとってなじみのないものになっていくという物語」(p.61)である。メイヤスーは「この分野において厳密にXSFである小説――つまり、状況や登場人物の無法な変質に対していかなる説明も与えない小説を、私は未だ見出していない」(p.61)とした上で、フィリップ・K・ディックの『ユービック』をそれに近いものとして挙げている。しかし、いわゆるSF小説ではないものの、ここで我々は第一部で参照したルネ・ドーマルの『類推の山』をその例として思い描くことができよう。XSFという概念とメタフィジックという概念の近さをここでも改めて確認することができる。

さて、ここで改めて話を小説『三体』に戻そう。前節において筆者は「『三体』は「エクストロ=サイエンス(科学・外)・フィクション」(=XSF)であると言える」と述べたが、厳密に言えば小説『三体』自体はやはり依然としてSF(サイエンス・フィクション)である。『三体』はあくまで地球人側の視点から書かれている「小説」であるからである。それが小説=物語である以上、メイヤスーの挙げた3つの手法を取ったとしても、サイエンス・フィクションの外部、さらに言えばフィクションの外部自体に出ることは難しい。メイヤスーは先ほどの3つのタイプを紹介するに先立ち、その難しさを次のように述べている。

――――――――――――――――――――――――――――――――――XSFの物語を書くことの困難さは――そして、そうした物語に隔絶した異質性を構成することを強いていると思われるものは、一般には語りから省かれるものから出発する、という点である。すなわち、単なる純粋な自由裁量性ではなく、あらゆる瞬間に繰り返し襲い掛かる自由裁量性である。サイエンス・フィクションの読者は、たとえ可能な限り奇想天外な前提を置くことを空想未来小説家に許容する心構えがあるとしても、作者がその前提を厳密に守り抜くこと、そして自らの作った世界に原因も理由もなく断絶を持ち込まないことをやはり期待している。そうした断絶は、物語全体のいかなる面白味も取り去ってしまいかねないからだ。――――――――――――――――――――――――――――――――――

この観点から考えると、『三体』がSF小説として成功し、また部分的ではあるが、XSFの要素を取り入れることに成功しているのは、全体としてはSF小説の枠組み、即ち「自らの作った世界に原因も理由もなく断絶を持ち込まない」というルールを守りながらも、しかしそこに「三体世界」という形で「エクストロ=サイエンス(科学・外)」の世界を取り入れていること(つまりはフィクションの外部には出ていないが、科学の外部には踏み込んでいること)、そしてさらにはその「三体世界」が「三体問題」という現実の科学問題(物理問題)にその原因や理由をおいていることで、先に述べたSF小説の枠組みからはやはり外れていない点(つまりは狐の皮をまとった狼のようにSFの皮をXSFにまとわせている点)をにあると言えよう。断絶を入れながらも、その断絶自体を物語の枠組みの中にうまいこと組み入れること、即ち「自らの作った世界に原因も理由もなく断絶を持ち込まないこと」に成功しているからこそ、『三体』はXSF的でありながらもSFであり続けられているのである。

しかし、同時に、これも第1章で述べたことの繰り返しになるが、そこに「断絶」が取り入れられているからこそ、「断絶」が持ち込まれているからこそ、即ち「三体世界」という「奇想天外な前提」が置かれているからこそ、やはり『三体』は「面白い」のである。「三体問題」という現実の科学問題(物理問題)は、ある意味SF小説として成立させるための一つの仕掛けであるにすぎない。我々が惹かれるのは「三体問題」という現実の科学の問題ではなく、「三体世界」というエクストロ=サイエンス(科学・外)の世界、奇想天外な世界がそこにあるからなのである。我々SFファンが求めているのは「物語に隔絶した異質性」「奇想天外」性の方なのである。我々が身を持って入り込みたいのは「XSFの「物語」」ではなく「XSFの世界」のほうなのである。つまりは小説『三体』におけるVRゲーム「三体」であり、さらにその先にある三体人の生きる「三体世界」である。しかし、そのような「奇想天外な前提」に惹かれるとしてもそれが「科学の条件も意識の条件もともに無効になった、無法状態の宇宙」であるカオスとなってしまってはやはりそこでの面白味は失われる。「ナンセンス」はギャグであるからこそ面白い(カオス性を楽しめる)のであって、純然たるカオスはそれがカオスであるが故に面白みも何も生まない。「想像力によって解決する科学」であると同時に「科学の可能条件を意識の可能条件から解放すること」というラインがあくまでもキープされているからこそ、そにには面白味(=魅力)が生じるのである。そして「その不規則性が、科学を無効にするには十分だが、意識を無効にするには不十分であるような世界」「科学の条件が消滅する世界は、必ずしも意識の条件も同様に無効化される世界であるとは限らない」世界、即ちXSFの世界においては「意識」=「認識」=「心」は、「科学」という「モノ」によって規定されるのではないし、「モノ」自体も意識によって規定されるのではない。「科学」という規則=条件に制限された「モノ」を超えた「奇想天外な前提」としての「モノ」が、まさに「モノそのもの」「モノ自体」として意識に刺さってくるのである。そして当然そこではその「意識」も「モノ」により生み出されたものでもなければ、「モノ」自体も「意識」により生み出されたものではない。繰り返すがそこではモノ=科学ではない。モノはモノとして圧倒的な不規則性、圧倒的な予測不可能性(しかし純然たるカオスではない)としてそこに存在し、ヒトも、さらに言えば「意識」というものさえも、そこではひとつのモノに過ぎないのである。

なお、メイヤスーはXSF的な小説の例としてフィリップ・K・ディックの『ユービック』を挙げていたが、我々は先に挙げたルネ・ドーマルの『類推の山』に加え、カート・ヴォネガット・ジュニアの傑作『タイタンの妖女』をその一例として挙げることができよう。イギリスの作家ジョージ・コリンは『タイタンの妖女』『猫のゆりかご』といったヴォネガット独特の作品群を次のように評している(ハヤカワ文庫版『タイタンの妖女』「訳者あとがき」p.463 より)

――――――――――――――――――――――――――――――――――バラードが"内宇宙”の探測に没頭した一方で、ヴォネガットはSF作家の愛好する風刺小説を、それらの作家にとっては目新しい方向、SFプロパーよりもむしろファンタジィに密接な関係を持つ方向へと発展させた。今日を未来に投射するユートピア風刺とはちがって、ヴォネガットは、これまでに存在せず、これからも決して存在しないような時空間関係の中に、現在を誇張してみせる。科学の法則と可能性を無視し、それを逆手にとって利用してみせる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?