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SF名作を読もう!(15) 『ハーモニー』

早世の天才、伊藤計劃と言えば『虐殺器官』か『ハーモニー』だが(というか事実上長編小説と言えるのはその2作のみなのだが)、私としては断然『ハーモニー』を推す。『虐殺器官』は素晴らしい小説だが、『ハーモニー』は素晴らしい、というかある意味行きつくところまで到達してしまった「SF」小説だからだ。

SFとは、SF小説とは、と言う問いを突き詰めていくと、最終的には「科学とは」という問題になる。そしてそれは「心(こころ)かモノか」「唯心論か、唯物論か」という心身二元論を巡る問題となり、そしてそれはもはや「哲学」となる。そしてその意味で科学と哲学の接点というかそこへの切り口、アプローチは科学にこそある。科学について突き詰めていくとそれは哲学的問題、「心(こころ)」の問題に到達せざるを得ないからである(なお、哲学を突き詰めていったからと言って科学の問題に行き当たることはあるかもしれないが、常に行き当たるわけではない)。「科学」そのものではないとしても「科学」を扱う小説であるSF小説も、当然そこから逃れることはできない。しかし多くの場合、それは「神」や「超能力」などといった超越的な何かを持ち出すことで安易な解決の道を選んでしてしまう(しかしだからと言ってSF小説としてよくない、面白くないわけではないが)。しかし『ハーモニー』はまさにそこに挑んだ、安易な道に逃げることなく、まっすぐに挑んだ作品である。だからこそ名作であり傑作であり心を打つ作品なのである。

内容には踏み込まないが、既に述べてきたことからも明らかなように、この小説のテーマは「心(こころ)」であり「魂」である。そして伊藤計劃はそれに徹底的に「科学」で切り込む。科学で切り込むということは言い換えれば「心(こころ)」ではなく「脳」に切り込む、ということである。もちろん「心=脳なのか」という声もあるであろうが、「科学」であるということは、とりあえずはそう見做す、物質的な、計測可能な、調査可能な対象を立てて、それを研究するということである。

脳の研究、しかもある意味外科的な研究(文字通り脳にメスを入れる)をしようと思えば、いろいろと倫理的な問題も出てくるだろうが、それが許されるのはSF小説だからこそであり、そのための設定もしっかり練られている。そう、今「倫理」と書いたが、「心(こころ)」がテーマである以上、ある意味必然的ではあるが、「倫理」もこの小説における大きなテーマである。時代や文化が違えば倫理感も異なるように、倫理は社会的なものである。では、その社会をつくりだすのは何か。それは人間の心(こころ)である。では心をつくりだすのは何か。それは「脳」である。であれば脳をコントロールできれば、、、、というのがこの小説の基本的な枠組みである。しかし、感動や情動といった心の動きが脳の動きの結果に過ぎないと言ったら、我々はその事実やそこから生まれてくる物語に感動できるだろうか。恐らくできないであろう。しかし、この小説は徹底した科学小説、SF小説でありながらも、感動できる小説なのである。それはなぜか。

私見ではあるが、それこそが科学を突き詰めると哲学に行きつくという事実そのものなのではないだろうか。言い換えれば脳を突き詰めることでこそ心(こころ)に行きつく、という事実である。多くの凡百の小説は心(こころ)の問題について心(こころ)で迫ろうとする。しかし伊藤計劃は違う。というかSF作家という道を選んだ伊藤計劃は違う。そしてそのアプローチは大きな成果を上げた。その意味でこの作品は一つの証明、一つの証拠であるともいえる。科学を突き詰めると哲学に行きつくという事実の証拠であり証明であるが、当然それは「突き詰めた」が故の結果である。先に「早世の天才」と書いたが、それは故人に対して失礼だったかもしれない。伊藤計劃は天才ではなく努力の人である。


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