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第5部 VRにおける空間と世界:「実存」から「実在」へ (12)

サルトル再考

そしてそのように考えると我々は、サルトルの言うところの「実存主義」をまた新たな視点から、より現代的な視点から、捉え直すこともできるようになるだろう。サルトルは「実存=現実存在」主義を唱えながらも、そこで目指されていたのは「では、どう生きるか」という「本質存在」としての人間のあり方であった。その点にある種の矛盾というか、謎があったのであるが、しかしそれが矛盾であり謎となるのは、やはり、我々が「存在」=モノと「認識」というものをどうしても分けて考えてしまうから、その二元論から逃れられないからであった。そしてそれから逃れるべく提案されたのが現象学であることはこれまでに見てきたとおりである。現象学では「モノ」の「本質」を見るために自然的態度のなす一般定立を遮断した上で、意識のほうを見る。フッサール自身が述べているように「現象学的観念論は、現実的世界(そしてまずもっては自然の)現実的存在などを、否定したりするものではない。」「現象学的観念論の唯一の課題と作業は、この世界の意味を解明することにあり、正確に言えば、この世界が万人にとって現実するものとして妥当しかつ現実的な権利を持って妥当しているゆえんの、他ならぬその意味を解明するところにある」のである。

サルトルの考え方もこのフッサールの現象学の流れを受けてのものであることは既にみたとおりである。しかし、フッサール自身が「現象学」を「現象学的観念論」と呼んでいるように、それはやはり「観念論」すなわち「認識」の側から世界を見ている。「存在を認識に還元してはならない」という「新しい実在論」のテーゼはここにこそ向けられている。思考と世界、世界と思考は互いに「相関」し合っていて、私たちはこの相関の外に出ることができない。それが「現象学」の考え方であるが(さらに言えばそれに先立つカントの考え方であり、また後にポストモダンと呼ばれる一連の思潮の中でその事実が暴かれ、批判されてきたところのものだが)、繰り返しになるが、「だからこそ自然的態度のなす一般定立を遮断した上で、意識のほうを見ていこう、そうすることでモノの「本質」が見えてくる」というのが「現象学」の考え方である。つまり「現象学」で見るのはモノ自体ではなく、あくまでモノの「本質」のほうである。そしてこれも何度も述べてきたことの繰り返しになるが、そこでの「モノ」は、あくまで「意識」において捉えられた「モノ」である。

一方メイヤスーに代表される「新しい実在論」では(といっても「新しい実在論」とて一枚岩ではないが)、このような考え方を「相関主義」として批判する。「新しい実在論」が目指すのはこの「相関主義」の外にでることである。そう考えると、メイヤスーがなぜ「エクストロ=サイエンス(科学・外)」のあり方にこだわっていたかが、さらに言えばなぜそもそもそのような問いや関心が立てられたかが改めて理解できるであろう。メイヤスーの言う「エクストロ=サイエンス(科学・外)」ではないものとしての「SF」の条件は「自らの作った世界に原因も理由もなく断絶を持ち込まない」というものであった。つまりは「相関主義」の中の世界であることをキープし続けるということである。そして/しかし、これもメイヤスーの言うように「実際には、エクストロ=サイエンスの世界が、そしてこうした世界が複数あることさえもが、想像可能」なのである。モノが意識を制限する世界、意識がモノを制限する世界としての「相関主義」の世界は、「想像力」という「意識」によってそこから抜け出すことが可能なのである。そしてさらにメイヤスーは「モノ」側もやすやすと、というか当然として「意識」側が制限する世界を抜け出すことの例も挙げている。メイヤスー(2006/2016)で言うところの「祖先以前」の世界の例である。

自然科学は、人類や他の生命の発生以前の地球について語ることができる。しかし、よく考えて見ればこれは「相関主義」の考え方からすればおかしな話である。相関主義に厳密に従えば、我々はそれを「科学的事実」というよりも「現代の私たちにとってはそう考えられる」と言うほかない。なぜなら「祖先以前」の世界は、「相関性」以前の世界だからである。しかし、自然科学はそのような「相関主義」をやすやすと乗り越える。しかし、だからと言って自然科学=モノの世界の方が絶対的であるというのでももちろんない。我々はここに来て「もし経験も論理もそれをわれわれに確信させてくれないのだとすれば、物理法則が一瞬後にも有効であり続けるだろうということを、何が真に保証するのか――そればかりでなく、何が我々にそう確信させるのか」というヒュームが提示した問い、そしてその問いにメイヤスーが注目したことを思い起こすであろう。この問いは言い換えれば「絶対的」あるいは「必然的」とは何か、それはどのように保証されるか、という問いであった。そしてそれに対しヒューム自身は「過去の経験的恒常性の習慣のみが、我々に未来も過去に似ているだろうと確信させるのだ」と結論付けた。一方、ポパーは「保証するものなどは何もない」と答えた。しかし、「未来予想とは、新たな科学実験によって本質的に反証されうる理論的仮説であるのだから」という理由からである。そしてそれはメイヤスーにより、「ポパーはヒュームの問いを誤解している、あるいは取り違えている」「ヒュームの問題は単なる科学理論の恒常性ではなく、物理法則が説明するプロセス自体の恒常性に関わる」もの、つまりは「存在論的」なものである。しかし、それをポパーはあくまで「認識論」として捉えている」と批判されることになる。

「認識論」とはまさに「相関主義」の中にあるもの、つまり「自らの作った世界に原因も理由もなく断絶を持ち込まない」というものである。そしてそのような「相関主義」の中では当然「絶対性」「必然性」は確保される。そもそも、絶対的、必然的であること自体が「相関主義」の絶対的なルールなのだから。よって、その意味では「自然科学」も一つの「相関主義」に過ぎない。しかし、まさに三体世界がそうであったように、「絶対性」「必然性」というものが確保されえない世界、「経験的恒常性」というものが成立しえない世界、というものも我々は想像することができる。そしてそこで「絶対的」「必然的」なのはむしろ「偶然性」の方なのである。メイヤスー(2006/2016)の副題が「偶然性の必然性についての試論」となっているのはそのような意味である。

 と、ある意味前置きが長くなったが、ここで話をサルトルに戻そう。先に「サルトルは「実存=現実存在」主義を唱えながらも、そこで目指されていたのは「では、どう生きるか」という「本質存在」としての人間のあり方であった。その点にある種の矛盾というか、謎があった」と述べたが、ここに来て我々はその矛盾を「相関主義」の矛盾として捉え直すことができよう。相関主義のルールとは「自らの作った世界に原因も理由もなく断絶を持ち込まない」というものである。しかし、「人間はそこに断絶を持ち込む(持ち込むことができる)存在なのである」、ということをサルトルは言いたかったのではないだろうか。そう考えると、「存在は本質に先立つ」という実存主義の定理は「存在」のもつ「偶然性」は「本質」と一般的には考えられているモノや人の生き方やあり方、即ち「相関主義」(あるいは/つまりは「現象学」)内での人のあり方に先立つ、と捉え直すことができる。つまり人間という存在の持つ「偶然性」(=「想像力」?)こそが「絶対的」「必然的」であり、それ故に人は相関主義の枠からも逃れ得ることができる、という考え方である。そしてこう考えると作家・戯曲家としてのサルトルと思想家、哲学者としてのサルトルの「矛盾」も解消されよう。『嘔吐』におけるマロニエの根は、まさに「偶然性」の象徴である。そしてその「偶然性」によって、人は「相関主義」「現象学」、そして「現象学」で言うところの「本質」に縛られた世界とはまた違う世界を垣間見ることができるのである。


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